路地裏で見つけた「青い氷」。
それは、この論理の世界(テラ・ロジカ)には存在しないはずの、故郷の痕跡でした。
私は凍える指先をこすり合わせながら、いつもの雑貨店の扉を押し開けます。
そこで待つリラさんに、この不吉な予感を伝えるために。
凍てつく路地裏のノイズ
『――次は気象情報です。都心では明日未明にかけ、季節外れの寒波が到来する見込みです。局地的な気温の低下にご注意ください……』
街頭ビジョンのニュースキャスターが、無機質な声で告げていた。 私はマフラーに顔を埋め、白い息を吐きながら足早に歩く。
ここ「テラ・ロジカ」に来て、それなりの時間が経つ。
コンクリートのジャングル、整然と並ぶ信号機、そして誰もが手元(スマホ)を見つめて歩く光景。
この世界は「論理」でできている。 魔法も、精霊も、奇跡も存在しない。
すべては計算可能な物理法則の下で動いている――はずだった。
「……寒い」
思わず口をついて出た言葉は、単なる気温のことではない。
肌を刺す風の中に、微かな違和感が混じっている。
この感覚を知っている。 これは自然の寒さではない。
エテリアの北境、「銀の回廊」から吹き下ろす魔力を含んだ風の匂いだ。
「まさか、ね」
私は首を振り、帰路を急いだ。
目指すのは、路地裏にひっそりと佇む雑貨店『GRAVITY』。
リョウリちゃんが淹れる熱いコーヒーがあれば、この悪寒も消えるだろう。そう自分に言い聞かせた。
けれど、店の裏口へと続く細い路地に足を踏み入れた瞬間、私は立ち止まらずにいられなかった。
「……嘘でしょう?」

自動販売機の低い唸り音(ハムノイズ)だけが響く暗がり。
そのアスファルトの隙間に、それは咲いていた。
青白く発光する、結晶化した氷の華。
排気ガスの煤にまみれた地面にはあまりにも不似合いな、透き通った美しさ。
私はしゃがみ込み、手袋を外して指先を近づける。
触れていないのに、指の皮がピリピリと痛む。
間違いない。これはただの氷ではない。
エテリアの魔力が、こちらの世界の大気と反応して凝固した「魔力の残り滓(スカー)」だ。
『キィ……ン……』
耳鳴りのような、高い音が聞こえた気がした。
誰かが歌っている? いいえ、これは「不協和音」。
世界と世界の境界線が擦れ合い、悲鳴を上げている音だ。
「リラさんに、知らせないと」
私はコートの襟をかき合わせ、震える手で『GRAVITY』の重い鉄扉に手をかけた。
論理の世界(テラ・ロジカ)の日常が、音もなくひび割れ始めていた。
カウンター越しの確信
カラン、コロン。 古めかしいドアベルの音が、張り詰めていた私の神経を少しだけ緩ませる。
「おかえりなさーい! リネアちゃん!」
店の奥から、いつもの元気な声が飛んできた。
リョウリさんが、湯気の立つポットを手に店の奥から顔を出す。
けれど、私の顔色を見た瞬間、彼女の笑顔がスッと真顔に変わった。
「……リネアちゃん? すごい顔色だよ。外、そんなに寒かった?」
「ただの寒さじゃないの。……リラさんは?」
私の問いかけに答えるように、店の奥にある事務机から、書類の山に埋もれていたリラさんが顔を上げる。
その鋭い瞳が、モノクルの奥で光った。
「ここにいるわよ。……嫌な予感がする顔ね、リネア」
私は無言でカウンターに歩み寄ると、ハンカチに包んで持ち帰った「それ」を広げた。
店内の暖房に触れてもなお、溶けることなく青白い冷気を放ち続ける結晶。
路地裏で拾った、エテリアの残滓。

「……これを見てください」
リラさんが眉をひそめ、ルーペを取り出して結晶を覗き込む。
リョウリさんも、心配そうに私の隣からそれを覗いた。
「なにこれ……氷? でも、なんかキラキラしてるし、変な感じがする」
「……質量保存の法則を無視しているわね。常温で昇華もしない」
リラさんが低く呟く。
彼女は雑貨店『GRAVITY』の店主であり、この世界の「論理」にも詳しい。
だからこそ、この異常さを誰よりも早く理解したはずだ。
「リネア。これ、どこで?」
「すぐ裏の路地です。……微かですが、『不協和音』が聞こえました」
私の言葉に、店内の空気が凍りつく。 その沈黙を破ったのは、コトッ、という温かい音だった。
「はい、特製ブレンド。まずは飲んで」
リョウリちゃんが、漆黒の液体――インク・コーヒーではなく、この世界の豆で淹れたホットコーヒーを差し出してくれた。 カップから立ち上る香ばしい湯気が、冷え切った鼻腔をくすぐる。
「ありがと、リョウリちゃん」
一口すすると、熱と共にカフェインが体に染み渡り、震えが少し止まる。
そうだ、ここは安全な場所。
けれど、ガラス一枚隔てた外側では、何かが確実に壊れ始めている。
「……リラさん。気のせいかもしれません。でも、もし『境界線』に穴が開いているとしたら」
「放っておけば、この街の論理(ロジック)が狂うわね」
リラさんはルーペを置き、指先でコツコツとカウンターを叩いた。
それは彼女が計算をする時の癖だ。
「行きましょう。気のせいならそれでいい。でも、もしも『あちら側』の客が迷い込んでいるなら……」
彼女は引き出しから、護身用の――しかし装飾過多な銀のダガーを取り出し、懐に忍ばせた。
私は飲み干したカップを置き、再びマフラーを巻き直す。
「案内するわ、リラさん」
外の風の音が、獣の唸り声のように強くなっていた。
都会の死角と、耳元の沈黙

「……ない、ですね」
スマホのライトが、冷たいアスファルトを円形に照らし出す。
ほんの数十分前まで、確かにそこに咲いていたはずの「青い氷の華」。
それが、跡形もなく消えていた。 水溜まりさえ残っていない。まるで、最初から私の幻覚だったかのように。
「反応ゼロよ。この場のマナ濃度も、空間の歪み係数も、完全に正常値(ノーマル)」
背後でリラさんが、改造されたガイガーカウンターのような端末を操作しながら溜息をつく。
彼女の論理的な診断は絶対だ。
機械が「ない」と言えば、この世界(テラ・ロジカ)においては「ない」ことになる。
「異常気象の霜か何かだったんじゃない? リネア、あなた少し疲れてるのよ」
リラさんは端末を懐にしまうと、モノクルの位置を直した。
その懐には、先ほど店から持ち出した「銀のダガー」が入っているのが見える。
もし魔物が実在していれば、あれが唯一の対抗手段になるはずだったけれど……今のところ、出番はなさそうだ。
「……そう、かもしれません」
私はライトを消す。 確かに、あの耳をつんざくような不協和音も、今は聞こえない。
ただ、遠くの道路を走る車の走行音と、室外機のファンが回る重低音だけが響いている。
「私は一度店に戻って、広域センサーのログを解析し直してみるわ。この周辺のノイズを全部洗えば、何か映ってるかもしれないし」
「分かりました。私は……もう少しだけ、この辺りを歩いてみます。風の匂いが、まだ少し気になるので」
「はいはい、気が済むまでやりなさい。何かあったら、そのイヤーカフで呼びなさいよ?」
リラさんは呆れたように肩をすくめると、カツカツとヒールの音を響かせて大通りへと戻っていった。
彼女の背中が見えなくなる。 ダガー(武器)も、彼女と共に遠ざかっていく。
路地裏に、私一人が残された。
「…………」
再び訪れる静寂。 私はコートのポケットに手を突っ込み、あてもなく歩き出す。
自動販売機の明かりが、私の影を長く伸ばす。
気のせいだったのだろうか。
エテリアの記憶が、私に幻を見せたのか。
そう自分を納得させようとした、その時だった。
『――――』

音が、止まった。 車の音も、風の音も、室外機の音も。
まるで世界のリモコンの「ミュート」ボタンが押されたかのような、完全な静寂。
違う。 音が消えたんじゃない。 何かが、音を吸い込んでいる。
「……っ!」
私は反射的に左耳のイヤーカフに指を添えた。銀色の通信機。リラさんに繋がる唯一の命綱。
『ザザ……ッ、リ……ア……? ……イズが……』
通信が繋がらない。 砂嵐のようなノイズが、私の鼓膜を直接叩く。
背筋に、氷柱を突き刺されたような寒気が走った。
振り返るな。 本能がそう叫んでいる。
(.....そうだスマホ)
けれど、私の身体は金縛りにあったように動かない。
背後の闇から、アスファルトを踏み砕く「重い音」が近づいてくる。
それは、論理の世界には存在してはいけないものの足音だった。
現実(リアル)の洗礼
振り返るよりも早く、世界が反転した。
「――がっ……!?」
何かが背中に衝突したのではない。私自身の体が、背後の「何か」によって弾き飛ばされたのだ。
視界がぐるりと回転し、次の瞬間、背中に硬質な衝撃が走った。
ドォンッ!!

鈍く、重い音。 肺の中の空気が一瞬にして絞り出され、声にならない悲鳴が喉に詰まる。
視界が白く明滅し、遅れて激痛が背骨を駆け上がった。
「かは、っ……ぐ、ぅ……」
口の中に広がる、生温かい鉄の味。
ずるずると、コンクリートの壁に背中を擦りながら地面に崩れ落ちる。
痛い。重い。息ができない。
エテリアであれば、私がぶつかった壁の方が派手に砕け散っていただろう。
あるいは、防御魔法が衝撃を吸収してくれたはずだ。
けれど、ここは「テラ・ロジカ」。
壁は無傷で、私の肋骨だけが悲鳴を上げている。
これが、この世界の現実(リアル)。
霞む視界の中で、私は「それ」を見た。
路地裏の闇が凝固したような、不定形の黒い影。
都市の排気ガスと、行き場のない電磁波が混ざり合ったような怨嗟の塊。
エテリアの魔物に似ているが、決定的に違う。ここにはマナの輝きがない。
『ザザ……おマえノなカにハ、あマい記憶(エサ)が、つマっテいル……』
耳障りなノイズ混じりの声が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶる。
言葉が通じる? いや、これは私の記憶領域をスキャンして、言語を模倣しているだけだ。
『……リねア。』
私の名を呼んだ。その瞬間、全身の毛穴が粟立つような悪寒が走る。
狙いは私。私の持つ「エテリアの記憶」。
逃げなければ。そう思うのに、足に力が入らない。
リラさんはいない。銀のダガーもない。
私は震える手で、足元に転がっていた錆びた鉄パイプを掴んだ。
冷たく、重く、ただの金属の棒。魔力増幅回路など刻まれていない。

それでも、私にはこれしかなかった。 本能が、喉を震わせる。
「――《凍てつく銀の吐息よ、我が意に従い、彼を貫け》」
かつて、幾多の魔獣を氷漬けにしてきた、絶対零度の旋律。 それを、渾身の力を込めて紡ぐ。
だが。
――何も、起きない。
鉄パイプは光らず、氷柱も発生しない。 ただ、私の歌声が虚しく路地裏に響き、ビルの壁に吸い込まれて消えていくだけ。
マナの枯渇したこの世界で、魔法は「ただの歌」に成り下がる。
影が、嘲笑うように歪んだ。
その巨大な腕が振り上げられるのを見上げながら、私は絶望の淵で、奇妙なほど冷静に思っていた。
(ああ、なんだ……。嘘みたいに硬い壁。) (ここでは、どれだけ強く歌っても、建物ひとつ壊れないんだ……)
それは、無力感と紙一重の、悲しい解放感だった。
絶望の淵と、銀の投擲

「――っ、ぐぅ!」
錆びた鉄パイプを盾にして、私は影の腕を受け止める。
凄まじい質量だ。 金属が悲鳴を上げ、私の腕の骨がきしむ音がする。
魔法障壁のない防御がこれほど重く、痛いものだとは。
『……キおく……よコせ……』
目の前で、影の顔(のような部分)がノイズと共に裂ける。
そこにあるのは口ではない。無限に続く虚無だ。
私の記憶、経験、そしてエテリアへの想い。
それら全てを食らい尽くそうとする捕食者の本能。
「嫌……渡さない……っ!」
私は歯を食いしばり、泥に塗れたブーツで地面を踏ん張る。
だが、力の差は歴然だった。 鉄パイプが飴細工のようにひしゃげ、影の圧力が私を押し潰しにかかる。
視界が黒く染まっていく。
ああ、ここで終わるのか。
誰も知らない路地裏で、ただの行方不明者として処理されるのか。
その時だった。
『ザザッ……――ア! リネア!!』
死んでいたはずのイヤーカフから、絶叫が飛び込んできた。
ノイズ混じりではない。鮮明な、あの人の声。
「リラ、さん……?」
『伏せなさいッ!!』
思考よりも早く、体が反応した。 私はとっさに身を低くし、アスファルトに転がる。
ヒュンッ!!
頭上を鋭い風切り音が通過した。 次の瞬間、影の腕に何かが深々と突き刺さる。
『ギャァッ!?』

不協和音が悲鳴に変わった。
影が怯み、後退する。
私は顔を上げた。
路地の入り口、逆光の中に、肩で息をするシルエットが立っていた。
「……はぁ、はぁ……! 間に合った……!」
リラさんだ。 彼女は手にしていた二振りの銀のダガーを構え直し、叫んだ。
「ボーッとしてるんじゃないわよ、このポンコツ吟遊詩人!」 「銃刀法違反は私が見逃してあげるわ! さっさと受け取りなさい!」
彼女が腕を振り抜く。
放たれた銀色の軌跡が、スローモーションのように空を裂いて私へと向かってくる。
私は手を伸ばす。 泥だらけの指先が、空中で回転する柄を掴み取った。
パシッ。
その瞬間、掌に走ったのは冷たい金属の感触だけではない。
微かだが、確実に懐かしい脈動を感じた。
エテリアの職人が鍛え、魔力を帯びた銀。
この世界で唯一、私の歌声(マナ)を受け止めてくれる触媒。
「……ありがとう、リラさん」
私はひしゃげた鉄パイプを捨て、二振りのダガーを逆手に構え直す。
重かった体が、少しだけ軽くなる。
恐怖が引いていき、代わりに静かな闘志が満ちていく。
『……オの……れェ……』
影が再び膨れ上がる。
だが、もう遅い。今の私は、ただの迷子ではない。
境界の戦姫

両手に銀の重みを感じながら、私は立ち上がろうとする。
だが、足がもつれた。
この世界の「ロングスカート」という衣服は、優雅だが戦場には不向きだ。 可動域が狭すぎる。
これでは、あの影の速度についていけない。
「……邪魔だ」
私は視線を巡らせ、路地脇に積まれていた朽ちた木箱を見つける。
ダンッ!
両手のダガーを、その天板に深々と突き立てた。
今は、刃物よりも、この両手が必要だ。
私は清楚なネイビーの布地を、両手で鷲掴みにする。
リラさんが選んでくれた現代の服。
ごめんなさい。でも、今は。
――ビリィッ!!
布の裂ける鈍い音が、静寂を切り裂く。
指に食い込む繊維の感触。
膝下まであった生地を、太腿の付け根近くまで、己の腕力だけで強引に引き裂いた。
露わになった白い脚に、夜風が冷たく触れる。
けれど、それでいい。 今の私は、現代の迷子ではない。
冒険者、リネア・ノクターンだ。

私は木箱からダガーを引き抜く。舞い上がる木屑が、ネオンの光を反射した。
『……ハぁ……?』
影が戸惑ったように揺らぐ。
私は深く息を吸い込む。肺の痛みは、もう気にならない。
「行くわよ」
銀のダガーを交差させる。 この刃には、微かにエテリアの魔力が残留している。
これなら、私の歌を「音」ではなく「物理的な力」に変換できる。
「――《星屑の刃、夜の帳を断ち切れ!》」
踏み込む。 アスファルトを蹴る靴底の感触。
歌声に呼応して、ダガーが青白い燐光を放つ。
影が触手を伸ばすが、布を裂いて軽くなった体は、風のようにその隙間を縫う。
ザンッ!
一閃。 影の腕が切断され、黒い霧となって散る。
手応えはある。だが同時に、手の中で「ピキッ」という嫌な音が響いた。

(もって……お願い!)
この世界の物理法則に、エテリアの繊細な細工は耐えられない。
私の歌という過剰なエネルギーを通すたびに、銀に亀裂が走っていく。
一撃ごとに、武器が死んでいく。
『……キおく……ガァ……!!』
影が咆哮し、全身から棘のようなノイズを放つ。
私は足を止めない。 最後の魔力を、砕けゆく刃に込める。
「――《終止符(コーダ)》!!」
ガギィンッ!!
交差する二つの銀閃。 影の核――赤く光るノイズの眼を、正確に捉えた。 瞬間、眩い閃光が路地裏を白く染め上げる。
『……扉ハ……あイた……。』 『こノせカいハ、まモなク……物語(マナ)で、おボれル……』
断末魔と共に、影は霧散していく。 それを見届けた直後、私の手の中で二振りのダガーは限界を迎え、砂のようにさらさらと崩れ落ちた。
記憶の灰と、開かれた扉
「……ごめんなさい」
私は掌に残った、さらさらとした銀の粉を見つめる。
役目を終えたダガーは、もう二度と元には戻らない。
ふわり。 足元に積もった青白い灰――「記憶の灰(アッシュ・メモリー)」が、風もないのに舞い上がり、私の指先に触れた。
『――♪……』
その瞬間、脳裏に電流のような映像が走る。
それは、私が忘れていた「歌」の断片。 エテリアの北の果て、銀の回廊で見たオーロラの色。
そして、図書館塔の地下で誰かと交わした、些細な約束の言葉。
「……あ」
理解した。 あの影魔は、単に私を襲ったのではない。
この世界(テラ・ロジカ)に来てから、私が無意識に零れ落とし、忘れてしまっていた「記憶」を啜って肥大化していたのだ。
だから、私の名前を知っていた。 あれは、私の一部だったものなのだから。
「おかえり。……寂しい思いをさせて、ごめんね」

私は灰を握りしめる。 冷たかったはずの粒子が、掌の中で温かな光となって溶け、私の胸の中へと還っていく。
喪失感と共に、少しだけ心が埋まる感覚。
「感傷に浸っている場合じゃないわよ、リネア!」
鋭い声と共に、肩に重いコートがかけられた。 リラさんだ。
彼女は周囲を素早く見回し、険しい表情で私の背中を押す。
「今の閃光と騒音、絶対に通報されたわ。 この国の警察は優秀なのよ。『銃刀法違反』に『器物損壊』、おまけに『公然わいせつ』で捕まりたいの!?」
「えっ……わいせつ?」
「その脚よ! 全く、なんて恰好してるの……!」
リラさんは私の裂けたスカートをコートで隠すように包み込むと、私の腕を引いて歩き出した。
パトカーのサイレンらしき音が、遠くから近づいてくる。
私たちは夜の闇に紛れ、路地裏を脱出した。
* * *
『GRAVITY』への帰路。 隣を歩くリラさんは、ずっと無言だった。
その横顔は、警察を警戒しているだけではない、もっと深い思索に沈んでいるように見えた。
(……おかしいわ)
リラは、自身のコートのポケットで冷たくなっている端末を握りしめながら、思考を巡らせていた。
先ほどの影魔(シャドウ・ストーカー)は、エテリアにおいては下級の魔物に過ぎない。 知能も低く、魔力も微小だ。
そんな存在が、どうやって「世界と世界の境界」を超えた?
次元を超えるには、図書館塔の魔導炉に匹敵する膨大なエネルギーか、あるいは「王家の鍵」クラスのアーティファクトが必要なはずだ。
たまたま「ひび割れ」があったとして、下級魔物が通り抜けられるような穴ではない。
(誰かが、意図的に『扉』を開けた? ……もしくは、何らかの触媒を使って、向こう側からこっちへ送り込んだ?)
「リラさん?」
「……なんでもないわ。今日は熱いお風呂に入って、泥のように眠りなさい」
リラはモノクルの奥の瞳を細め、振り返る。
遠ざかる路地裏の上空。 そこには、肉眼では見えないはずの、赤黒いノイズの亀裂が、まだ微かに燻っているように見えた。
「扉は開いた」 あの魔物はそう言った。
この平穏な論理の世界(テラ・ロジカ)が、物語(マナ)で溺れる日は、そう遠くないのかもしれない。
(完)