注意ポイント
第8話『10万人の偶像、一人の少女』
Section 1:10万人の偶像(アイコン)
06:00 PM - Shibuya Scramble Crossing
それは、一種の宗教画のようだった。
夕暮れの渋谷。巨大なビルに備え付けられた四方のビジョンが、すべて一つの映像でジャックされていた。
映し出されているのは、純白のドレスを纏い、光の弓を引き絞る「魔法少女・最終形態」。
私であって、もはや私ではない、完成された美の権化。
「ねえ見て、未希ちゃんだ!」「本物の神様みたい……」
街を行く人々が足を止め、スマホを掲げる。
SNSの通知音は、もう何時間も前から止まっていない。フォロワー数はついに10万人を超え、私の投稿一つで世界が数ミリほど動くような、奇妙な錯覚に陥る。

(……あ、私、もう完成しちゃったんだ)
街頭ビジョンを見上げながら、私は独りごちた。
加工に加工を重ね、理想の輪郭を上書きし続け、人々の期待を飲み込んで膨れ上がった「未希」というアイコン。
それはもう、私の手を離れて自立して歩き始めている。
10万人の熱狂が、私の名前を呼んでいる。
けれど、その声は誰一人として、厚いファンデーションの下にある青白い肌や、呼吸のたびに軋む肋骨の痛みを知らない。
街中の誰もが私を知っているのに、本当の私を知っている人間は、この雑踏に一人もいない。
身体が、ひどく軽い。
物理的な重力から解き放たれ、このまま夜空に溶けて消えてしまいそうな、心地よい絶望。
「神様」になれば、寂しくなくなると思っていた。
「誰か」になれば、死ぬのが怖くなくなると思っていた。
けれど、完成の瞬間に私を包んだのは、宇宙の果てに放り出されたような、底なしの孤独だった。
私は、震える指でカメラマンにメッセージを送った。
最後の撮影会。私のわがままで選んだ、あの廃墟。
『明日。最後の一枚、撮ってください。一番綺麗な、私を』
Section 2:狂気のラスト・サマー
03:00 PM - Abandoned Factory Studio
ひんやりとしたコンクリートの匂いと、窓から差し込む斜光に舞う埃。
かつて何かを生産していたであろう廃墟スタジオは、今の私にふさわしい、死の予感に満ちた静寂に包まれていた。
「……未希ちゃん、無理はしなくていい。座ったままでも……」
カメラマンの手が、レンズを握ったまま微かに震えているのがわかった。
ファインダー越しに、彼は見てしまったのだろう。 厚いメイクでも隠しきれない、私の肌の死の色を。 衣装の隙間から覗く、痛々しいまでに細くなった鎖骨を。
「大丈夫……。撮って。今、撮って」
私は壁に寄りかかりながら、渾身の力で立ち上がった。
光の弓を手に取り、ポーズを作る。
その瞬間、身体の奥底から最後のアドレナリンが沸き上がるのを感じた。
痛みも、吐き気も、すべてが光の彼方へと押し流される。
カシャッ、カシャッ、と乾いたシャッター音が静かな廃墟に響き渡る。
レンズの向こうで、彼の瞳が大きく見開かれる。
(ああ……見えてるんだね。今の私が)

逆光の中に立つ私は、もはや物質としての重みを失っていた。
窓から降り注ぐ光の粒子(ゴッドレイ)に溶け込み、輪郭が揺らぎ、まるでこのまま天に召される天使のようだった。
「綺麗だ」と彼が呟く。それはあの時よりも、ずっと深く、絶望に近い響きを持って届いた。
「……もっと撮って。私が私だった証拠を、全部。世界が忘れても、あなただけは忘れないように」
私は微笑んだ。10万人のフォロワーが熱狂する「公式」の笑顔ではなく、ただ一人の理解者に向けた、剥き出しの、最後の微笑み。
最後の一射を放つように、私は弓を最大限に引き絞った。
その直後。 パチン、と糸が切れる音がした。
「あ……」
視界から光が消え、重力が一気に戻ってくる。
私は弓を落とし、そのまま糸の切れた人形のように前方へ崩れ落ちた。
「未希ちゃん!!」
コンクリートの床に叩きつけられる直前、温かい温もりが私を包んだ。
彼の胸の中で、私は激しく咳き込む。
「ごめん……なさい……」
意識が遠のく中、私の指先が彼のシャツを弱々しく掴んだ。
レンズの先で神様を演じる時間は、もう終わった。
そこには、ただの、今にも消えてしまいそうな一人の少女が横たわっていた。
(つづく)