注意ポイント
第9話『解けた魔法、最後の共犯者』
Section 1:奪われた魔法
04:00 PM - Hospital Room, Autumn Rain
窓の外では、終わりの見えない冷たい秋の雨が、世界を灰色に塗り潰していた。
数日前まで浴びていた、あの眩しいほどのフラッシュ。耳に焼き付いたシャッター音と、熱狂的な歓声。
それらはすべて、遠い昔に見た質の悪い白昼夢だったのではないか。
今の私を包んでいるのは、何重にも重なったシルクのドレスではなく、糊の効きすぎた、無機質でサイズの合わない入院着だ。
部屋の隅に置かれた鏡を、私はもう三日も見ていない。
スマホの電源も切ったままだ。
「元気?」「次の投稿待ってるよ!」という通知が来るたびに、画面の中にいる「完璧な未希」に、今の私が殺されていくような気がしたから。
「……あ」

枕元に落ちた、数本の髪の毛を指で掬い上げる。
指先で弄ぶだけで、力なく、容易く抜けていく。
髪も、肌の艶も、立っているための気力も。
「神様」を演じるための魔法の道具は、砂時計の砂のように、指の間からこぼれ落ちていく。
「……これじゃあ、もう、誰も私だって気づかないね」
自嘲気味に呟いた声は、乾燥した病室の空気に吸い込まれて消えた。
コンコン、と控えめなノックの音がして、あなた(カメラマン)が部屋に入ってきた。
あなたは、何も言わずにパイプ椅子を引き寄せ、私のベッドの傍に座った。
その顔を見た瞬間、ずっと張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。
「……見ないで」
私は布団を頭から被り、掠れた声で拒絶した。
「見ないでよ。今の私は、公式コスプレイヤーでも、10万人のアイドルでもない。ただの、みすぼらしい病人なの。……あんなに綺麗に撮ってくれたのに、全部、台無しにしちゃった」
布団越しに、嗚咽が漏れる。
あなたが私の震える肩に、そっと手を置いたのがわかった。
「台無しになんか、なってない」
あなたの静かな声が、雨音を切り裂いて届く。
「俺が撮ったのは、衣装じゃない。未希ちゃん、君自身だ。どんな姿になっても、俺のレンズが見ているものは変わらないよ」
嘘だ、と言いたかった。
でも、その言葉の温かさに、私はたまらず布団から顔を出した。
涙でぐちゃぐちゃになった、加工もレタッチもできない、本当の私の顔を。
「……ひどい顔でしょ?」
弱々しく笑う私を見て、あなたは悲しそうに、けれど愛おしそうに目を細めた。
その時、私は悟ってしまった。
私はもう、10万人のための神様には戻れないけれど。
たった一人の、あなたの前でだけは、「私」として生きていたいのだと。
Section 2:最後の約束
01:00 AM - Midnight Hospital Room
消灯時間を過ぎた病室は、深い海の底のように静まり返っていた。
窓から差し込む青白い月明かりが、ベッドの上に境界線を描いている。
「……ねえ」
私は、隣で眠りに落ちかけていたあなたの指先に、そっと触れた。
驚いて顔を上げたあなたの瞳に、月光を反射した私の顔が映る。
「冬コミ……行きたい。もう一度だけ、あの場所に行きたいの」
あなたの顔が、苦痛に歪んだ。 言わなくてもわかっている。今の私の容態で、真冬の屋外イベント、それも数万人が押し寄せる戦場のような場所に行くことが、何を意味するのか。 それは、最後の一滴まで命を絞り出す、自殺行為に等しいのだと。
「未希ちゃん、それは……医師だって許さない。身体が持たないよ」
「わかってる。わかってるよ。でもね、病院のベッドで、モニターの心拍数を見守られながら消えていくなんて、私には耐えられない」

私は、震える手であなたの大きな手を、必死に握りしめた。
骨が浮き出た私の掌に、あなたの体温が流れ込んでくる。
「最後は、レンズの前にいたい。10万人のフォロワーのためじゃない。公式の役目のためでもない。……あなたのカメラの前で、一番綺麗な私のままで、終わりたいの」
「終わり」という言葉を口にした瞬間、心臓の奥が冷たく鳴った。
あなたが沈黙する。その数分間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、あなたは私の手を包み込むように握り返し、絞り出すような声で言った。
「……わかった。連れて行くよ」
その瞳には、決意と、それ以上の深い哀しみが宿っていた。
「世界で一番、綺麗に撮るよ。君が、君でいられる最後の瞬間まで」
私たちは、暗闇の中で静かに笑い合った。
それは救いなんてどこにもない、地獄へと続く約束。
けれど、その時。私たちは間違いなく、世界でたった二人の『共犯者』になった。
(つづく)