「……空が、高いわね。」
それは、物語の1ページ目を捲る時のような、静かな予感だった。
三角屋根の駅と、異邦人の朝
春の光が、ガラス張りの巨大な駅舎に反射して、眩しいくらいのプリズムを作っている。
わたし、星名 寧亜(ほしな ねあ)は、重たいトランクケースを引きずりながら、栃木駅の北口広場に降り立った。
「……ここが、蔵の街。」
見上げると、そこには不思議な意匠を凝らした駅舎がそびえ立っていた。
近代的なガラスと鉄骨の壁面に、幾何学模様のように描かれた鋭角な三角形たち。
それは、この街の象徴である「蔵」のシルエットを、現代のアートとして再構築したかのよう。
そのデザインは、ここがただの通過点ではなく、歴史という物語の入り口であることを静かに、けれど雄弁に主張している。

「ふふ、まるで街全体が、一つの大きな書庫みたい。……いいえ、まだ少し違うかしら。」
わたしは視線を駅前のロータリーへと移す。
そこには、大地から天へ向かって広がるような、赤と黒のアーチを描くモニュメント「煌樹(こうじゅ)」が立っていた。
風が吹くたび、見えない葉がざわめく音がする。
……ううん、それは私の耳にしか聞こえない、この土地の「記憶」の音かもしれない。
わたしには、物に触れるとその「記憶」や「想い」を読み取ってしまう力がある。
だから、ノイズの多い都会の人混みは少し苦手だ。
けれど、この街の空気は……不思議と澄んでいる。
駅舎の幾何学模様も、モニュメントの曲線も、街全体に流れる時間が、ゆったりとした川の流れのように整えられている気がするのだ。
「GRAVITY……。店長さんのお店は、巴波川(うずまがわ)沿いにあるって言っていたわね。」
ポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリを確認する。
画面に反射する自分の姿――深みのある紺色のブレザーに、紫とグレーのチェック柄スカート。
今日から通うことになる「星霜(せいそう)高校」の制服は、まだ糊が効いていて少しこそばゆい。
風が吹き抜け、銀色のアッシュヘアが頬をくすぐる。
わたしは耳元の髪をそっと払い、トランクのハンドルを握り直した。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
キャスターがアスファルトを叩く音が、新しい生活へのカウントダウンのように響く。
わたしは異邦人。
この街にどんな物語が眠っているのか、まだ何も知らない。
でも、確かな「重力」が、わたしを呼んでいる気がした。
甘い香りの衝突事故
駅から大通りを抜け、街の中心部へと歩を進める。
しばらくすると、風景の色が変わった。
コンクリートの建物が減り、代わりに黒漆喰の壁や、歴史を感じさせる見世蔵がちらほらと姿を現し始める。
「……綺麗。」
思わず声が漏れた。
目の前に現れたのは、川面を撫でるように枝を垂らす柳並木と、重厚な石造りの橋――幸来橋(こうらいばし)。
その向こうには、大正ロマンを感じさせる赤煉瓦の洋館が、朝日に照らされて輝いている。
川面には、空の青と、蔵の黒と、柳の緑が溶け合って揺れていた。
まるで、絵画の中に迷い込んだみたい。
わたしがその景色に見とれ、立ち止まっていた、その時だった。
「どいてどいてぇぇぇーーっ!! 遅刻しちゃうんだよぉぉ!!」
「え……?」
静寂を切り裂くような、けたたましい叫び声。
振り返る間もなかった。
橋の向こうから、何かが猛スピードで突っ込んでくる気配。
視界の端に映ったのは、栗色のサイドポニーテールと、はちきれんばかりの……紙袋?
ドガッ!!
「きゃっ!?」
「あわわわっ!?」
鈍い衝撃と共に、わたしの身体はよろめいた。
けれど、不思議と痛みは少なかった。
その代わり、ふわりと鼻をくすぐったのは――焼きたてのカステラのような、甘くて幸せな香り。
「い、痛たた……。ああっ! 私の『すずなり屋』のベビーカステラがあぁぁ!!」
尻もちをついた私の目の前で、大騒ぎしている女の子がいた。
私と同じ星霜高校の制服。けれど、彼女の着こなしはどこか躍動的だ。
彼女は地面に転がりそうになった紙袋を、まるで曲芸のような動きで見事にキャッチしていた。

「セーフ!! 危なかったぁ……。これ落としたら、リラ店長に減給されちゃうところだったんだよぉぉ!!」
「え、あの……大丈夫ですか?」
わたしが恐る恐る声をかけると、彼女はパッと顔を上げた。
大きな琥珀色の瞳が、キラキラと輝いている。
太陽みたいに明るくて、とびきり元気な笑顔。
「あ! ごめんね! 私、急いでて……って、あれ? その制服、うちの学校? でも見たことない顔だねっ!」
「あ、はい。今日から転入する……星名、です。」
「もしかして、お客さん!? いや、トランク持ってるってことは……ああっ! わかった! 君が新しい『居候』さんだねっ!?」
「い、居候……?」
その言葉の響きに苦笑しながらも、わたしは何故か、彼女から目が離せなかった。
この街に来て最初に出会ったのが、こんなに騒がしくて、甘い匂いのする女の子だなんて。
彼女は私の手を取り、強引に立たせると、ニカっと笑って言った。
「私は料理 涼(すずり りょう)! 食べる料理の字を書いて『すずり』って読むんだよ!
みんなからはそのまま『リョウリ』って呼ばれてるけどね! 星霜高校2年、料理研究部部長にして、GRAVITYのシェフなんだよ! よろしくね、転校生さん!」
その手は、驚くほど温かかった。
これが、わたしと彼女――リョウリさんとの、衝撃的な出会い。
そして、この「重力(グラビティ)」の中心地へと導かれる、最初の引力だった。
(第2話へ続く)
【寧亜の編集後記】
ここまで読んでくれてありがとう。
リョウリさんとの出会いは、本当にあんな感じだったのよ。
あの時、彼女が必死に守ったベビーカステラ……あとで一つもらったけれど、涙が出るくらい美味しかったわ。
物語はまだ始まったばかり。
次回は、いよいよあのお店――骨董店『GRAVITY』の重厚な扉を開けることになるわ。
……あの人の「鑑定」に、わたしは耐えられるかしら?
ふふ、よかったら、この物語の感想を「#蔵の街のグラビティ」で教えてくれると嬉しいわ。
あなたの言葉が、次の物語を紡ぐインクになるの。
それじゃあ、また次の夜に会いましょう。