『石の回廊、あるいは沈黙の標本』
昨日のことが、まるで遠い夢のように思える。
リョウリさんと駆け抜けた倭町の喧騒。鉄板の上で爆ぜるソースの音。口いっぱいに広がったベビーカステラの甘い香り。
あの極彩色の「動」の世界から一晩明けて、私は今、世界からすべての色彩を奪われたような場所に立っていた。
「……寒いです、先生」
思わずそう呟いて、私はカーディガンの襟を合わせた。
目の前にそびえるのは、淡いミントグリーンとベージュの石材で組まれた、重厚な洋館。
栃木市立文学館。
かつては町役場として使われていたこの建物は、巴波川の黒い蔵たちとは異質の、「威厳」という名の重力を放っていた。
「あら、そうですか? 今日は小春日和ですのに」
先を歩くアイリス(入沢 彩莉栖)先生が、ふわりと振り返る。
その微笑みはいつも通り穏やかだ。
けれど、彼女が重い木製の扉を開けて一歩中へ踏み入れた瞬間、私の肌を刺す空気の温度は、確実に2度は下がった。
(……静かすぎる)
いつもなら、私の耳には街の「記憶」がさざ波のように届く。
けれど、この建物の分厚い石の壁は、外の音を完全に遮断し、そして中の音すらも逃がさない。
私の心音だけが、不自然に大きく鼓膜を叩いていた。
***
「どうぞ、こちらへ。古い資料の整理を少し手伝っていただきたいのです」
コツ、コツ、コツ……。
高い天井の廊下に、先生のヒールの音と、私のローファーの音だけが乾いた反響を繰り返す。
大正10年に建てられたというこの空間は、時間が止まっているようだった。
磨き抜かれた飴色の床。
幾何学模様のステンドグラスから落ちる、埃の舞う光線。
手摺の曲線美。
それらはあまりに美しく、そしてどこか「墓標」めいていた。

(音が……吸い込まれていく)
私が無意識に床や壁に視線を走らせても、いつものような「残響(サイコメトリー)」が聴こえてこない。
いや、聴こえないのではない。
何十年、何百年という膨大な時間が、幾層にも塗り重ねられすぎて、一つの巨大な「沈黙」の塊になっているのだ。
まるで、深海の底を歩いているような圧迫感。
「ここですわ」
通されたのは、館の奥まった場所にある資料室だった。
古書特有の、甘くて少しカビ臭い匂いが鼻を突く。
***
「この棚にある昭和初期の文献を、年代順に並べ替えてほしいのです。
私は奥で、別の整理をしてきますから」
「はい、わかりました」
私は言われた通り、革表紙の本を手に取り、背表紙の日付を確認し始めた。
作業は単純だ。静寂の中で、紙が擦れるカサリ、カサリという音だけが響く。
10分、20分……。
ふと、手を止めた。
(……あれ?)
違和感。
背筋を冷たい指でなぞられたような悪寒が走る。
私は、恐る恐る後ろを振り返った。
「……先生?」
誰もいない。
いや、姿が見えないだけならいい。
「音」が、しないのだ。
アイリス先生は、いつも微かに鼻歌を歌っていたり、衣擦れの音がしたり、あるいは穏やかな呼吸音がするはずだ。
その「気配の音」が、完全に消失している。
この部屋には私一人。
なのに、無数の本たちが、背表紙という無数の瞳で、私をじっと凝視しているような感覚。
(これは……なに?)
私は胸元の鍵を握りしめた。
調律しようとしても、合わせるべき相手がいない。
そこにあるのは、時が止まった空間特有の「死んだ音の匂い」。
「先生……?」
私の声は、誰にも届かず、古い紙の匂いの中へ吸い込まれて消えた。
静寂が、私を閉じ込めようとしていた。
『鋼の歯車が刻む、五十年前の未来』
「先生……?」
返事はない。
資料室の空気は、時間と共に重さを増していた。まるで、空気そのものが透明なゼリーのように凝固していくような息苦しさ。
私は逃避するように、目の前の作業に没頭しようとした。
棚の奥から、一際古びた黒い革表紙のアルバムが出てきたのは、その時だった。
背表紙には金文字で『昭和四十八年度 卒業記念』とある。
(昭和48年……50年も前)
何かに導かれるように、私はその重たい表紙をめくった。
カビと、防虫剤の匂いが舞い上がる。
「……っ!?」
ページを開いた瞬間、私の心臓が早鐘を打った。
セピア色に褪せた集合写真。
その中央に、彼女はいた。
アイリス先生。
髪型も、着ている服装も、そしてあの穏やかな微笑みも、今の彼女と寸分違わない。
50年という歳月が、彼女の上だけ完全に素通りしている。
けれど、異常なのはそれだけじゃなかった。
彼女を囲む数十人の生徒たち。
その全員の「顔」が、無かった。
物理的に削られたのではない。現像の段階で、そこだけが白く濁り、激しくブレて、顔のパーツが識別できないのだ。
まるで、存在そのものを世界から拒絶されたように。
私は震える指で、写真の表面に触れた。
『ギャァァァァァァァ!!!』
「いやぁっ!!」
指先から脳髄へ、直接叩き込まれたのは「電子的な悲鳴」。
古い写真なのに、聴こえてくるのはアナログな記憶じゃない。
壊れたデータのような、不快な高周波のノイズ。
その奥底で、無数の声が重なって叫んでいる。
『助けて、助けて、助けて』
『時間が、溶ける』
『先生、どうして』
私は悲鳴を上げてアルバムを放り出した。
ドサッ、と重い音が静寂を破る。
ここはダメだ。ここにいてはいけない。
***
私は資料室を飛び出した。
「先生! アイリス先生!」
廊下を走る。けれど、どこまで走っても出口が見えない。
いつの間にか、私は見覚えのない狭い階段を降りていた。
石造りの壁が濡れている。地下だ。
突き当たりに、重厚な鉄の扉があった。
扉は、招くように少しだけ開いている。
部屋の中は暗く、中央に置かれた小さなテーブルの上で、何か小さな箱が回っていた。
アンティークのオルゴールだ。
ポロン、ポロン、ポロロン……。
美しい音色。
恐怖で乱れた私の呼吸が、その旋律に惹きつけられる。
けれど、次の瞬間、私はさらなる恐怖で凍りついた。
(この曲……)
知っている。
これは、昨日リョウリさんと一緒に入ったコンビニで流れていた、流行りのポップソングだ。
先月リリースされたばかりの、最新のヒット曲。
(嘘……どうして?)
目の前のオルゴールは、どう見ても数十年、いや百年近く前の代物だ。
金属のシリンダーに打ち込まれたピンが、物理的に音を奏でている。
50年前の機械が、202X年の曲を知っているはずがない。
時間が、狂っている。
美しい旋律が、今はただ、論理を破壊する「凶器」となって響いていた。
***
ガチン。
不意に、オルゴールが止まった。
ゼンマイが切れたのではない。誰かが、止めたのだ。
「……懐かしいでしょう?」

背後の闇から、鈴を転がすような声がした。
私は弾かれたように振り返る。
そこに、アイリス先生が立っていた。
いつもの穏やかな笑顔。
けれど、今の私には、その笑顔が能面のように無機質に見える。
「……懐かしい、ですって?」
私の声は震えていた。
「この曲は、まだこの世にないはずです。あの写真も……貴女は、一体……」
アイリス先生は、ふふ、と楽しそうに笑い、ゆっくりと私に歩み寄った。
彼女がポケットから取り出した金色の懐中時計――「煌時計(こうどけい)」が、暗闇の中で妖しく光る。
「まだ作られていない曲を『懐かしい』と感じる。
……さて、迷子の子猫さん」
カチ、カチ、カチ……。
時計の秒針の音が、心臓の鼓動を上書きするように、不自然なほど大きく響き始めた。
「貴女は今、『どの時間』に迷い込んだのかしら?」
先生の影が、私を飲み込むように伸びていく。
私はその深淵の前で、言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
(第6話・後編へ続く)