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『蔵の街のグラビティ』第7話『名前のない旋律 —鏡のなかの1976—』

記録された波紋、あるいは五十年目の既視感

ザザッ……という、レコード針が溝を空転するような音が、世界を支配していた。

ここは、どこだろう。
いいえ、「いつ」だろう。

視覚情報(ビジュアル)は、ノスタルジーというフィルターを通して再生されている。
目の前に広がるのは、昭和51年――西暦1976年の、栃木市の風景だ。
巴波川(うずまがわ)の護岸は今よりも低く、水面は手に届きそうなほど近い。
通りを行き交う人々は、裾の広がったパンタロンや、極彩色のロングスカートを靡かせ、どこか浮き足立った熱気を帯びている。
路地裏からは、ブラウン管テレビの砂嵐の音と、歌謡曲の気怠いメロディが漏れ出している。

古き良き、美しい記憶。
……けれど、この世界は決定的に「壊れて(グリッチして)」いた。

見上げれば、夕焼けであるはずの空は、毒々しいほどのマゼンタ色に塗り潰され、その端のほうからボロボロと画素(ピクセル)が欠け落ちている。
雲は流れているのではない。数秒ごとのループ再生を繰り返して、ぎこちなく痙攣しているだけだ。
そして、足元を流れる巴波川の水面。
それは液体として揺らいでいるのではない。
黒く、硬質に渦を巻き、無数の細い溝が刻まれた巨大な「レコード盤」として回転していた。

「……また、この夢」

川岸に立ち、そう呟いたのは一人の少女。
その姿は、あまりにも異質だった。
顔立ちは今のアイリスと寸分違わぬ、整った人形のような美しさ。
けれど、彼女の髪は――あの柔らかなハニーブロンドではなく、「鮮やかな青(シアン)」だった。
自然界には存在しない、エラーコードのような青色。
それが、この記憶が正しい歴史ではなく、破損したデータであることを無言のうちに証明している。

少女は、自身の青い髪が風になびくのを鬱陶しそうに払った。
視覚的バグ。自己認識の歪み。
彼女にとって、この色は「呪い」の象徴だった。

「約束だよ」

ノイズ混じりの風に乗って、声が響く。
少女の目の前に、一人の影が立っていた。
顔は見えない。逆光と、激しい画像の乱れ(ブロックノイズ)のせいで、その人物が男なのか女なのか、老人なのか若者なのかさえ判別できない。
ただ、その手が差し出した「銀色の輝き」だけが、鮮明な解像度を持っていた。

「この時計を、託す」

少女の手のひらに乗せられたのは、精緻な彫刻が施された銀の懐中時計。
今のアイリスが持っている「金」の時計とは違う、冷たく冴えた銀色。

「この街の音は、いずれ消えていく。
開発の波、時代の変化、人々の忘却……。美しい旋律は、いつか必ず『騒音』にかき消され、誰にも思い出されなくなる」

アイリス(青い髪の少女)の周りで、景色が早回しのように流れる。
古い建物が取り壊され、新しいビルが建ち、またそれが古びていく。
人々の話し声、路面電車のベル、祭囃子。
それらが次々とマゼンタ色の空の彼方へ吸い込まれ、無音になっていく。

「だから、お前が『器』になるんだ」

影の声は、冷徹な命令として、あるいは慈悲深い祈りとして、彼女の心臓に楔(くさび)を打ち込む。

「すべての消えゆく音を、その時計に、そしてお前自身の魂に記録しなさい。
いつか、この街の『音』を正しく聴き取り、調律してくれる『誰か』が現れる、その日まで」

「……誰かって、誰ですか? いつ、来てくれるのですか?」

少女は問う。
けれど、答えは返らない。影はノイズの中に霧散していく。
残されたのは、重すぎる時計と、途方もない「待ち時間」。

「待つのだ。たとえ50年、100年かかろうとも。
お前は、この街の記憶の番人(アーカイブ)。
決して、忘れてはいけない。決して、風化させてはいけない」

重い。
手のひらの時計が、鉛のように重くなる。
世界がザラザラとした砂嵐(スノーノイズ)に覆われ、愛おしい風景を飲み込んでいく。

それは「永遠の孤独」という名の契約だった。
街中の誰が忘れても、自分だけは覚えていなければならない。
誰も聴かなくなった歌を、たった一人で口ずさみ続けなければならない。
その膨大な記憶のデータは、やがて彼女の心を圧迫し、言葉を奪い、あの「絶対的な沈黙」へと変貌させていくのだとしても。

「……寂しいよ」

レコードのような川面に向かって、青い髪の少女は小さく呟いた。
その声すらも、ノイズ混じりの風にかき消されていく。
彼女の頬を伝う涙だけが、このバグだらけの世界で唯一、リアルな温度を持っていた。

***

硝子のなかの独奏会(リサイタル)

ふっ、と意識が浮上する感覚。
レコードの針が上がり、回転が止まる。

「……ん……」

消毒液と、夕暮れの匂い。
目を開けると、そこはマゼンタ色の空の下ではなく、茜色に染まった学校の保健室だった。
窓の外からは、運動部の掛け声や、遠くを走る車の音が聴こえる。
壊れていない、正しく時が進む「現代(いま)」の音。

ベッドの上では、星名 寧亜(リネア)が深く、静かな眠りについていた。
昨夜、あの巴波川で「絶対的な沈黙」に触れ、意識を失った彼女。
その顔色はまだ蒼白く、まるで硝子細工のように脆く見えた。

「……リネア」

ベッドの脇のパイプ椅子に腰掛け、彼女を見守っていたのは、アイリス(入沢 彩莉栖)
その姿は、夢の中の少女とは違っていた。
窓から差し込む夕陽を受けて輝く、柔らかなハニーブロンドの髪。
すべてを見透かすような、深く澄んだ琥珀色の瞳。
いつもの、穏やかで完璧な「アイリス先生」。

けれど、その表情だけは、いつもの微笑みを忘れていた。
彼女は、眠るリネアの頬に、そっと白魚のような指先を伸ばし――触れる寸前で止めた。

「……ごめんなさい、リネア」

誰もいない保健室に、独り言が落ちる。
それは謝罪であり、懺悔だった。

「貴女を、私の『沈黙』に巻き込みたくはなかった。
……貴女は、あまりにも真っ直ぐに、私の奥底にある『泣き声』を見つけようとするから」

アイリスの琥珀色の瞳が、悲しげに揺れる。
彼女が守り続けてきた50年分の記憶。
それは美しいアーカイブであると同時に、決して開けてはならないパンドラの箱でもあった。
箱の蓋をこじ開けようとしたリネアを、防衛本能(システム)としての「沈黙」が拒絶してしまったのだ。
あるいは、リネアを守るために、アイリス自身が彼女を突き放したのかもしれない。

「まだ、早いのです。
貴女が私の待ち望んだ『後継者』なのか、それとも私を終わらせる『介錯人』なのか……。
もう少しだけ、夢を見ていてくださいな」

アイリスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
その手には、あの「金色の煌時計」。
夢の中で託された「銀」が、いつ「金」へと変わったのか。
その長い歳月の間に、彼女が何を失い、何を得たのか。
今はまだ、誰も知らない。

カチ、カチ、カチ……。

秒針の音が、部屋の空気を優しく、けれど残酷なほど正確に刻み続ける。
アイリスは窓の外、暮れなずむ蔵の街を見下ろした。
50年前と変わらないようでいて、すべてが変わってしまったこの街を。

「待っていますよ。……私の孤独な旋律を、貴女が本当の意味で『調律』してくれる日を」

夕闇の中、彼女の背中はどこか透き通って見えた。
まるで、いまにも夜の闇に溶けて消えてしまいそうな、儚い陽炎のように。

リネアはまだ目覚めない。
けれど、その耳の奥には、夢の残滓として焼きついた「青い髪の少女」の面影と、アイリスの悲しい願いが、消えない残響となって刻み込まれていた。

(第8話へ続く)



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