……静かな午後でした。私たちの拠点である『GRAVITY』は、今、栃木県栃木市の巴波川(うずまがわ)沿いにある、重厚な黒漆喰の蔵を改装した骨董店として、この現実世界にその扉を開いています 。
天窓から差し込む陽光が、古い本棚の背表紙を優しく撫で、思考の海に深く沈み込むのに最適な、凪のような時間だったのです 。
けれど、その静寂は、階段を「ドタドタ」と駆け上がってくる賑やかな音によって、鮮やかに塗り替えられてしまいました 。
勢いよく扉を開けて入ってきたリョウリちゃんの手には、目が覚めるような鮮やかな黄色のパックが握られていました 。
私の机にドンと置かれたその飲み物は、この落ち着いた蔵の屋根裏部屋には少し刺激が強いような、けれどどこか楽しげな色をしています 。
レモンなきレモンの謎

「レモン牛乳」……。パッケージにはそう書かれています。
けれど、いつの間にか私の影に潜んでいたネロちゃんが、分厚い眼鏡を押し上げながら、そのパッケージを鋭い視線でスキャンし始めました 。
果実が入っていないのに、レモンを名乗る飲み物。
……「実体のない名標」。なんだか、とてもミステリアスな響きだわ、と感じてしまうのは、私の職業病かもしれませんね 。
丸メガネをかけ直して、その「音」を聴いてみることにしました。
優しさとノスタルジー
慎重にストローを差して、一口。……その瞬間、予想していた酸味とは全く違う旋律が、口の中で解けていきました 。
- 酸っぱくありません。……あまい 。
- レモンの鋭い高音(ソプラノ)ではなく、ホルンのような丸くて優しい中低音 。
- 初めて飲むのに、なぜか「ただいま」と言いたくなるような、不思議な懐かしさ。
それは、エテリアの聖域で聴いた風のささやきよりもずっと、テラ・ロジカ(現実世界)の泥臭い、けれど温かな生活の音がする味でした。
リョウリちゃんが誇らしげに語る横で、ネロちゃんもいつの間にか自分の分をチューチューと吸っています。
……あら、ネロちゃん、意外と気に入ったのかしら?
黄色い余韻
結局、3人で並んでパックを飲みながら、午後の残りの時間を過ごしました。
騒がしかったはずの部屋には、いつの間にか穏やかな、黄色い余韻が漂っています。
派手な見た目とは裏腹に、とても穏やかで優しい味 。
栃木という街は、こういう不思議な優しさでできているのかもしれません。
私の「テラ・ロジカ観測録」に、また一つ、温かな旋律が加わりました。
……物語は、まだ始まったばかりだわ 。