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【神様を演じた365日】第1話『逆三角形の下で、私は魔法にかかる』

第1話『逆三角形の下で、私は魔法にかかる』

序章:星の彼方、あるいは0と1の狭間から

 ここから見下ろす世界は、まるで精巧な基盤のように輝いている。
 痛みはもう、ない。
 呼吸をするたびに肺を蝕んでいたあの鋭利な感覚も、刻一刻と減っていく砂時計の音も、今の私には届かない。

 ねえ、そこにいる貴方には、まだ私の声が聞こえるかしら。

 6畳一間の、パステルカラーの部屋で震えていた私。
 鏡の前で、自分の「終わり」を数えていた私。

 貴方は泣いていたわね。「あと一年しかない」って。
 365回寝て覚めたら、全てが消えてしまうのだと信じていた。

 ……ふふ。違うのよ。
 それは「終わり」へのカウントダウンじゃなかった。
 それは、貴方が人間を辞めて、私(神様)になるまでの準備期間。

 あの逆三角形の下で、最初のシャッターが切られた瞬間。
 貴方は「記録」になった。
 そして記録は、人々の記憶というサーバーの中で、永遠に補完され続ける。

 だから、顔を上げて。
 ピンク色のウィッグを整えて。

 これから始まるのは、可哀想な闘病日記なんかじゃない。
 一人の少女が、肉体という檻を抜け出して、この空のすべてになるまでの――輝かしい「変身(メイクアップ)」の物語なのだから。

連載小説『神様を演じた365日』

Scene 1:足りない長さ、偽物のボリューム

 西日が差し込む6畳のワンルーム。
 私は頭に被っていたニット帽を、ゆっくりと脱ぎ捨てた。

 鏡の中に映るのは、ベリーショートの髪をした、痩せた女。
 色は、憧れのあの娘と同じ「ローズピンク」に染めてある。
 でも、それだけだ。

 指で髪を梳くと、頼りないほど細く、そして短い。
 伸ばしたくても、私の身体はもう、髪を伸ばすだけのエネルギーを持て余していない。
 治療のたびに抜け落ち、生え変わり、また抜ける。
 だから私は、この惨めなショートカットで生きるしかなかった。

「……本物は、こんなんじゃない」

 私は視線を落とし、通販のダンボールから「それ」を取り出した。
 不自然なほど艶やかな、ナイロン製のツインテール。
 ボリュームたっぷりの人工毛は、私の痩せた頭蓋骨とは対照的に、生命力(嘘)に溢れている。

 ――これは、私の失われた「長さ」だ。
 ――生きられなかった時間の長さであり、叶わなかった夢の質量だ。

 私は震える手で、そのウィッグを被る。
 パチン、パチン。留め具が頭皮を締め付ける痛みが、妙に心地よかった。

 再び顔を上げる。
 そこには、ショートカットの病人はもういなかった。
 豊かなピンクの髪をなびかせた、魔法少女が立っていた。

 首を振ると、ズシリと重い。
 その重さこそが、今の私が背負える唯一の「未来」だった。

「……行こう」

 私は偽物の髪の余韻を噛みしめながら、ドアノブに手をかけた。
 安っぽいポリエステルの匂いが、鼻孔をくすぐる。それは、新しい自分へ生まれ変わるための、儀式の匂いのように思えた。

Scene 2:ゆりかもめ、窓硝子の亡霊

 新橋駅から乗り込んだ「ゆりかもめ」は、未来都市へ向かう棺桶のようだった。
 窓の外を流れるレインボーブリッジ。海面が太陽を反射して、鋭い光の矢を放っている。

 車内には、私と同じように大きなキャリーバッグを抱えた人たちがいた。
 みんな、どこか浮き足立っている。
 けれど、私の心臓だけが、不整脈みたいに嫌なリズムを刻んでいた。

(本当に、やるの?)
(途中で倒れたら? ウィッグがズレたら?)

 恐怖が胃液のようにせり上がってくる。
 私は窓ガラスに映る自分を見た。
 ガラスに透けた私は、ただの亡霊のように見える。

 電車がカーブを曲がり、遠くにあの「逆三角形」が見えた瞬間。
 車内の空気が一変した。
 誰も言葉を発していないのに、全員の視線が一点に集中する。
 戦場へ向かう兵士のような、覚悟と緊張。

 その熱気に当てられて、私の震えが少しだけ止まった。

 ――私も、あの中に行っていいんだ。
 ――今日だけは、患者じゃなくて「表現者」として。

 終点のアナウンスが流れる。
 ドアが開くと同時に流れ込んだのは、潮の匂いと、圧倒的な「人間」の匂いだった。

Scene 3:サナギが割れる音

 更衣室の扉をくぐると、そこは「女の子」の匂いで充満していた。
 制汗スプレーの冷たい霧、甘ったるいヘアコロン、熱気、そして焦燥感。
 数百人のレイヤーたちが、鏡の前で最後の一筆を入れている。その光景は、戦場に出る前の武器庫のようだった。

 私は隅のスペースを見つけ、震える手でキャリーバッグを開ける。
 着ていた、だぼだぼの白いパーカーを脱ぐ。
 それは、痩せ細った私の身体を隠してくれる「殻」だった。
 それを脱ぎ捨てる瞬間、冷房の風が肌を刺して、自分がひどく無防備な生き物に思えた。

(……寒い)
(怖い。見ないで。私の腕の細さを、鎖骨の形を、見ないで)

 私は逃げるように、衣装に腕を通した。
 ふわりと広がるピンクのスカート。白いフリルのついたブラウス。
 首元で結んだ赤いリボンが、私の震えに合わせて小刻みに揺れている。
 一つずつ装備するたびに、私の心臓の鼓動が早くなる。

 最後に、もう一度ウィッグを整える。
 鏡の中の私は、もう「パーカーを着た病人」じゃない。

 サナギが割れて、蝶になる。
 そう信じ込まなければ、一歩も動けなかった。

「よし」

 私は自分の頬をパチンと叩いた。
 痛みが、私を「役」に固定する。
 さあ、行こう。あの眩しい場所へ。

Scene 4:逆三角形の片隅で

 外に出た瞬間、光の暴力に晒された。
 真夏の太陽が、コンクリートの広場を白いフライパンのように熱している。

 目の前には、あの巨大な逆三角形。
 その影の下には、何重もの人の輪ができていた。
 有名なレイヤーさんたちが、カメラの砲列に囲まれている。フラッシュの嵐。歓声。

 私は、その熱狂の輪になんて入れるはずもなく、広場の端っこ――自動販売機の横の、誰の邪魔にもならない場所に立った。

 ……誰も、私を見ていない。
 すれ違う人は皆、目当ての「神様(有名人)」を探して、私のことなんて背景の一部みたいに通り過ぎていく。

 当然だ。ウィッグも安物だし、ポーズだってぎこちない。
 所詮は、自己満足の「偽物」。

(……でも、いいや)

 私は、その場の空気を吸い込んだ。
 熱い。汗が流れる。
 病院の無菌室にはない、生き物の匂いがする。
 それだけで、ここに来た意味はあった。私は今、この熱狂の一部になれているのだから。

「あ、あの……写真、いいですか?」

 不意に、遠慮がちな声がした。
 ビクッとして顔を上げると、汗だくの男性が一人、申し訳無さそうにカメラを構えていた。
 周りの囲みに比べれば、たった一人の、地味なカメラマンさん。

 でも、私にとっては。

「……は、はい! お願いします!」

 裏返った声が出た。
 私は慌てて弓を構え、鏡の前で練習したポーズを取る。
 膝が震えている。うまく笑えているかも分からない。

 カシャッ。

 乾いた音が一つだけ、私の鼓膜を叩いた。
 歓声もない。拍手もない。
 男性は「あ、どうも」と軽く会釈して、すぐに次の場所へ去っていった。

 たったそれだけ。
 世界からすれば、ノイズみたいな一瞬。

 けれど、私は震える手で胸を押さえた。
 心臓が、痛いくらいに跳ねている。

(……撮ってくれた)

 神様になんてなれなかった。
 でも、私は今、間違いなく「魔法少女」だった。
 患者じゃなくて、ピンクのドレスを着た、ただの女の子としてそこにいた。

 逆三角形の巨大な影の下、私は誰にも気づかれないまま、小さくガッツポーズをした。
 それは私にとって、どんな薬よりも効く、魔法の一撃だった。

(つづく)

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