序章 雨音の隙間に

深夜二時。雑貨店「GRAVITY」の屋根裏部屋は、心地よい薄闇に包まれている。
窓の外では、久しぶりの雨が舗道を叩いていた。
リネアは愛用のマグカップを両手で包み込み、立ち昇る湯気に顔を寄せた。
甘いココアの香りが、少しだけ冷えた鼻先をくすぐる。
ピチャン、ポツリ、サーー……。
雨音は、空からの手紙だ。
屋根を打つ音、窓ガラスを流れる音、遠くの街路樹がざわめく音。
それぞれが異なる音色を持っていて、耳を澄ませば、そこに世界の状態(コンディション)を感じ取ることができる。
「……いい雨音」
独り言ちて、一口啜る。
ふと、そのリズムの中に奇妙な「空白」が混じった気がした。
音が途切れたわけではない。
ただ、記憶の奥底にある『絶対的な静寂』が、今の雨音に重なったのだ。
リネアはマグカップを置き、アンティークの文机(ふづくえ)の引き出しをゆっくりと開けた。
ガラクタに紛れて転がった、くすんだ緑色の「植物の種」。
そして、端が焼け焦げた古い羊皮紙の地図。
指先で種に触れると、ひやりとした冷たさと共に、あの森の匂いが蘇る。
湿った土と、苔と、そして――音のない世界。
彼女は窓ガラスに映る自分自身の瞳を見つめ、静かに語りかけた。
まるで、画面の向こうにいる誰かに物語を始めるように。
「……ねえ、知っているかしら。静寂には、二種類あるんです」
リネアは目を細め、遠い記憶の景色を言葉へと紡いでいく。
「心を休ませてくれる、優しい静けさと。
そして、訪れる者の気配も、雨の音さえも飲み込んでしまう……貪欲な静けさが」
これは、そんな「音のない森」に魅入られた、ある日のわたしの冒険譚。
ページを捲る音が、静寂を破る合図となる。
第1章 灰色のカーテン

エテリア北西部、「沈黙の樹海」。
その森に足を踏み入れた瞬間、世界から高音が消失した。
足裏に伝わるのは、頼りないほどの柔らかさだ。
数百年、あるいは数千年という時をかけて堆積した翡翠色の苔が、大地という大地を覆い尽くしている。
ブーツが土を踏む硬質な音は、その分厚い絨毯に瞬時に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
リネアは、灰色の空を見上げた。
湿り気を帯びた風が、頬を撫でるように通り過ぎていく。
肌にまとわりつくような重たい冷気。
それは、空が泣き出す直前の合図だった。
ポツリ、と。
視界の端で、シダの葉が小さく揺れる。
通常、森に降る雨は賑やかだ。
葉を叩く音、地面を打つ音、それらが重なり合って壮大な交響曲(シンフォニー)を奏でる。
けれど、この森は違う。
無数に降り注ぐ雨粒は、苔の海に触れた途端にその声を奪われるのだ。
サァァ……という雨音すら聴こえない。
ただ、視界全体に灰色のカーテンが降りてくるような、圧倒的な「静」の圧力がそこにあった。
不気味なほどに静かで、けれど息を呑むほどに美しい、音のない雨。
リネアは巨木の根元、わずかに開けたスペースに足を止めた。
「……ここを、今夜の宿り木にしましょう」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた声もまた、すぐに湿った大気に溶けて消える。
彼女は背負っていた革の鞄を下ろすと、慣れた手つきで防水布(タープ)を取り出した。
魔法を使えば、雨を弾く結界など造作もないことだ。
けれど、今の彼女は「吟遊詩人」ではなく、ただの「旅人」であることを望んでいた。
不便さの中にこそ、研ぎ澄まされる感覚があることを知っているからだ。

二本の立ち木の間にロープを渡し、布を張る。
ピンと張られた稜線が、頭上に小さな「安全地帯」を作り出す。
タープの下に潜り込むと、ようやく世界に音が戻ってきた。
ボツ、ボツ、ボツ。
布を叩く雨音が、まるで心臓の鼓動のように鈍く、リズミカルに響く。
それは外の完全な静寂とは対照的な、生の証のような音だった。
次は、火だ。
周囲から集めた枯れ枝は湿気を含んでおり、そのままでは火付きが悪い。
リネアはナイフを取り出し、枝の表面を薄く削り取ってフェザースティックを作っていく。
木肌が捲れ、乾いた内側が露わになると、ふわりと木の香りが立った。
火打石を構える。
カチッ。カチッ。
硬質な打撃音と共に、小さな火花が散る。
何度目かの火花が麻屑(ほくち)に捉えられ、赤い熱が生まれた。
彼女はそれを両手で包み込むようにして、そっと息を吹きかける。
細く、長く。命を吹き込むように。
ちろ、と小さな炎が舌を出した。
それは瞬く間にフェザースティックへと燃え移り、パチパチという微かな破裂音を上げ始める。
オレンジ色の光が、薄暗いタープの下を優しく照らし出した。
揺らめく影が、苔むした地面に踊る。
リネアは深く息を吐き出し、焚き火のそばに腰を下ろした。
冷え切っていた指先に、じんわりと熱が伝わってくる。
外は相変わらず、音のない雨が降り続いている。
けれど、この小さな布の下だけには、爆ぜる薪の音と、雨粒が布を叩くリズム、そして温かな光があった。
孤独だけれど、寂しくはない。
この静寂と温もりこそが、今の彼女にとって最高の音楽だったから。
第2章 招かれざる客

シェラカップから立ち昇る湯気が、白い軌跡を描いて夜気に溶けていく。
リネアは、熱いスープを一口、喉に流し込んだ。
とろりとしたコーンの甘みと温もりが、冷え切った内臓に染み渡る。それは、孤独な夜における唯一の救いのように思えた。
「……ふぅ」
ほう、と白い息を吐き出す。
焚き火の爆ぜる音だけが、この世界に残された許された音色のようだ。
ゆらめく炎を見つめながら、リネアはふと、思考の海に沈んでいく。
(わたしは、どうしてこの森へ?)
吟遊詩人として、未だ見ぬ旋律を探すため。表向きの理由はそれだ。
けれど、心の奥底に、もっと切実な何かが引っかかっている。
誰かとの……約束。
「……誰、と?」
記憶の糸をタグ繰り寄せようとした瞬間、視界が白く霞んだ。
まるで脳内に霧がかかったように、大切な部分だけが曖昧にぼやけている。
思い出そうとすると、こめかみの奥がズクリと痛んだ。
その違和感から逃れるように、リネアは再びカップに口をつける。
その時だった。
ボッ、と不自然な音を立てて、焚き火の炎が大きく揺らいだ。
風は吹いていない。それなのに、炎は何かに怯えるように、激しくのたうち回っている。
「……?」
リネアはカップを置き、周囲の闇に視線を走らせた。
異変は、音もなく進行していた。
さっきまでタープを叩いていた雨音が、遠い。
雨が止んだわけではない。目の前で雨粒は地面に落ちている。
けれど、その「着弾音」だけが、まるで録音のボリュームを絞るように、急速に小さくなっていく。

――空気が、変だ。
鼓膜がツンとするような圧迫感。
高山に登った時のそれに似ているが、もっと粘着質で、不快な圧力。
これは、自然現象じゃない。
(来る……)
リネアの肌が粟立った。
森の奥、光の届かない漆黒の闇から、「それ」は近づいてきていた。
足音はしない。獣の唸り声もない。
ただ、「そこにあるはずの音」が消失していく。
遠くで鳴いていた虫の声が、プツリと途絶えた。
風が木の葉を揺らす擦過音が、塗り潰されるように消えた。
完全なる無音の領域が、インクの染みのように広がり、リネアのいる場所へと迫ってくる。
――『静寂の捕食者(サイレンス・イーター)』。
吟遊詩人の間で囁かれる、お伽話の中の魔物。
音を喰らい、気配を喰らい、最後には獲物の生命力(メロディ)さえも啜り尽くす、森の亡霊。
ふっ、と焚き火の勢いが衰えた。
薪はまだ残っているのに、まるで酸素そのものが奪われたかのように、炎が小さく縮こまる。
タープの下という絶対的な安全圏(サンクチュアリ)に、冷たい闇が侵食してくる。
リネアの呼吸が浅くなる。
自分の心臓の音さえも、闇に吸い取られて聞こえない。
逃げ場はない。
彼女の右手が、無意識のうちに腰のベルトへと伸びた。
指先が触れたのは、愛用の短剣(メロディック・ブレード)の冷たい感触だった。
第3章 詠唱する刃(メロディック・ブレード)

シュゥ……。
焚き火が、断末魔のような音を立てて消えかけた。
薪が尽きたわけではない。燃焼という現象そのものが、周囲の「無」に押し潰されたのだ。
闇が、リネアの目の前で凝縮する。
それは不定形の霧であり、同時に質量を持った「虚無」の塊だった。
目も口もない。けれど、そこには明確な飢餓感がある。
『静寂の捕食者』が、リネアの心臓の鼓動――その生命のリズムを喰らおうと、音もなく覆いかぶさってきた。
(……息が、できない)
肺が鉛のように重い。
世界から音が消えるとは、これほどまでに孤独なものなのか。
けれど、恐怖に塗りつぶされそうになる意識の底で、リネアの指先は冷徹に動いていた。
シャラッ。
ベルトから引き抜かれた短剣が、頼りない月明かりを反射して鋭く輝く。
それは武器というにはあまりに華奢で、装飾的だった。
刀身には不規則な穴が幾つも穿(うが)たれており、まるで楽器のようにも見える。
リネアは、迫りくる黒い霧に向けて切っ先を突きつけ――ない。
彼女はふわりとステップを踏み、切っ先を天に向けた。
そして、指揮棒(タクト)を振るうように、鋭く空気を薙(な)いだ。
ヒュゥゥゥン!
澄んだ高音が、死んだ森の空気を切り裂いた。
それは剣戟(けんげき)の音ではない。風が刀身の穴を通り抜けることで生まれる、笛の音色だ。
不協和音スレスレの、けれど背筋が震えるほどに美しい、鋭利な口笛。
「ギ……ッ!?」
音のないはずの空間で、捕食者が苦悶に身をよじらせた。
完全なる静寂を生きる彼らにとって、明確な意図を持った「旋律」は、肉を焼く劇薬に他ならない。

「……さあ、演奏(ダンス)の時間よ」
リネアの瞳に、静かな戦意が宿る。
一度生まれた音は、もう止まらない。
彼女は手首を返し、さらに激しく、優雅に剣を舞わせた。
ヒュン、ヒョオォッ、キィィン!
右へ、左へ、頭上へ。
剣が空気を斬るたびに、異なる高さの音が生まれる。
連続する斬撃はやがて重なり合い、ひとつの和音(コード)となって夜気の中に響き渡った。
それは、物理的な質量を伴う「音の壁」だ。
可視化された音波が波紋のように広がり、黒い霧を内側から弾き飛ばしていく。
ドォォォン!
空気が振動し、窒息しそうだった空間に酸素が戻ってくる。
黒い霧は、その高潔な調べに耐えきれず、蜘蛛の子を散らすように霧散していった。
静寂が、破られた。
リネアの周囲にだけ、再び「世界」が戻ってきたのだ。
第4章 朝のコーヒーと再会の予感

チュン、チチチ……。
あどけない鳥の声が、リネアの意識を覚醒させた。
ゆっくりと瞼を開けると、そこには翡翠色の世界が広がっていた。
夜の間にあれほど恐ろしく見えた苔の森は、いまや朝露を纏って宝石のように輝いている。
雨は、いつの間にか止んでいた。
木々の隙間から差し込む朝陽が、光の梯子(はしご)となって地面に降り注ぐ。
ポチャン、と葉から雫が落ちる音がした。
カサリ、と風が枝を揺らす音がした。
「……聴こえる」
リネアは深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに満ちる、湿った土と緑の匂い。
それは、森が生きている証。世界に「正常な音」が戻った合図だった。
恐怖の夜を乗り越えた身体は、温かいものを求めていた。
リネアは燃え残った熾火(おきび)に新しい枝をくべ、小さなケトルを火にかけた。
ボコ、ボコボコ……。
湯が沸く音さえも、今は愛おしい音楽だ。
ドリッパーをセットし、挽いたばかりの豆に湯を落とす。
ふわりと立ち昇る香ばしい湯気が、朝の冷気と混ざり合う。
「いただきます」
マグカップに口をつける。
苦味と酸味、そして奥にある深いコク。熱い液体が喉を通り、指先まで血が巡っていく感覚。
「……騒がしいのも困るけれど、全く音がないのも寂しいものね」
誰に言うでもなく呟いて、リネアは小さく微笑んだ。
孤独を知って初めて、日常の喧騒のありがたみが分かる。昨夜の死闘は、この一杯を最高に美味しくするためのスパイスだったのかもしれない。
太陽が高くなるにつれ、森は賑やかさを増していく。
リネアは飲み干したカップを片付けると、タープを丁寧に畳み始めた。
ペグを抜き、焚き火の跡を綺麗に均(なら)し、自分がここにいた痕跡を消していく。
森にお邪魔させてもらった礼儀として、来た時よりも美しく。
「ありがとう。良い夜だったわ」
巨木にそっと手を触れて別れを告げ、リネアは再び歩き出した。
ブーツが土を踏む、ザッ、ザッという確かな音が、森の小径に心地よく響いた。
***

「……というのが、あの時の顛末(てんまつ)」
深夜の雑貨店GRAVITY。屋根裏部屋の窓辺で、リネアは語り終えた。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
けれど、今の彼女の周りには、たくさんの「音」があった。
階下からは冷蔵庫のモーター音。遠くの通りを走る車の走行音。そして何より、この店に染み付いた仲間たちの気配。
リラ店長が電卓を叩く音。
リョウリがフライパンを振るう音。
AIちゃんがパタパタと飛び回る羽音。
今は静まり返っているけれど、朝になればまた、あの愛すべき騒音が戻ってくる。
「静寂も素敵だけれど。……だから私は、この店の、程よい騒がしさが好きなんです」
リネアは愛用の万年筆を置き、ふわりとあくびをした。
雨音は、もう怖くない。それは世界が回っていることの証明だから。
「さて、そろそろ眠らなきゃ。明日はリョウリが、新作のモーニングを作ってくれる約束だから」
彼女は窓の外、画面の向こうにいるあなたに向けて、穏やかに微笑みかけた。
「おやすみなさい。よい夢を」
あとがき 〜雨上がりのティータイム〜
最後まで、わたしの物語に付き合ってくれてありがとう。
「雨の日のキャンプなんて、憂鬱なだけじゃない?」
そう思う人もいるかもしれないけれど、悪いものじゃありませんよ。すべてのノイズが雨音に洗われて、自分自身の心の声と向き合える……とても贅沢な時間ですから。
そうそう、物語の最後……第4章で、わたしがコーヒーを飲んでいたマグカップのこと、覚えているかしら。
実はあれ、現実のわたしがこのGRAVITYの屋根裏部屋で愛用しているものと同じなんです。
冷めてしまったコーヒーを、そのまま焚き火やバーナーにかけて温め直せるタフさ。
そして何より、唇に触れた時の、あの独特の優しい温度。
静寂を愛する旅人にとって、彼はただの道具ではなく、心強い「相棒」のような存在ね。
もしよかったら、その『彼』との出会いや魅力についても少しだけ語っていますので、覗いてみてください。
あなたの旅にも、素敵な旋律(メロディ)が響きますように。
▼リネアの旅の相棒はこちら
【Vol.8】直火で育てる一生モノ。スノーピーク『チタンシングルマグ』が旅人に愛される理由