1. 冬のノイズと新しい日常
蔵の街に、冬が来た。
黒漆喰の壁にうっすらと雪が積もり、モノクロームのコントラストが一層際立っている。
私は白い息を吐きながら、かじかむ手で胸元の鍵を握りしめた。
「……うるさい」
先日、あの骨董店で「覚醒」してからというもの、私の世界は一変した。
街中に溢れる「記憶の残響」が、以前よりも遥かに鮮明な「音」となって鼓膜を叩くのだ。
橋の欄干が軋む音は、誰かの待ちぼうけの溜息に。
古い街灯のブーンという駆動音は、焦燥感に駆られる心拍数に。
常に胸元の鍵に触れて、自分の中の周波数を「調律(チューニング)」していないと、情報の濁流に酔ってしまいそうになる。
「おーい! 寧亜ちゃーん!! おはよぉぉ!!」

背後から、弾けるような声が聞こえた。
振り返ると、オレンジ色のパーカーを着込んだリョウリさんが、雪を蹴散らして走ってくる。
彼女の声は、まるでパチパチと爆ぜる暖炉の音みたいだ。明るくて、温かくて、私の冷え切った耳をじんわりと溶かしてくれる。
「あら、おはようございます。二人とも」
校門の前では、アイリス先生が穏やかに微笑んでいた。
彼女の声は、完璧に調和された和音(コード)。その響きに触れるだけで、乱れていた私の呼吸がスッと整う。
この二人の音が近くにあることだけが、今の私にとっての救いだった。
2. 依頼:狂ったリズム
放課後。骨董店『GRAVITY』。
店内には石油ストーブの灯油の匂いと、少し焦げたような甘い香りが漂っていた。
「……また、ズレた」
カウンターの奥で、リラ会長――いや、店長が、珍しく苛立ちを露わにしていた。
彼女の目の前にあるのは、美しい銀細工が施されたアンティークのメトロノーム。
ピラミッド型のボディは磨き上げられ、一点の曇りもない。
「どうしたんですか、リラさん?」
「……星名、寧亜。ちょうどいいところに来ましたわね」
リラさんは黄金の瞳を鋭く細め、そのメトロノームを指先で弾いた。
カチ、カチ、カチ……。
私の耳には、正確にリズムを刻んでいるように聞こえる。けれど、彼女は不快そうに眉を寄せた。

「この子は、嘘つきです」
「え?」
「修理に出しても『機械的な異常なし』。数値上は完璧なテンポを刻んでいるはず。……けれど、私の耳は誤魔化せません。この子のリズムには、決定的な『淀み』がある。気持ちが悪くて、ピアノに集中できませんの」
完璧主義者の彼女にとって、その微細なズレは許しがたいノイズなのだろう。
私はトランクを置き、その冷たい銀色の筐体に手を伸ばした。
「……診てみます」
3. 調律:完璧さの裏側の旋律
指先が銀の冷たさに触れた、その瞬間。
ギャァァァァン!!
「っ……!?」
耳をつんざくような不協和音が、脳髄を直撃した。
黒板を爪で引っ掻いたような、鋭く、悲鳴のような音。
私は反射的に耳を塞ぎそうになり、慌てて左手で胸元の鍵を強く握りしめた。
(合わせて……! この子の『核』に!)
鍵が小さく共鳴し、ノイズの嵐をフィルタリングしていく。
その奥から聴こえてきたのは――ピアノの音だった。
――タン、タン、タン、タン。
正確無比な音階練習。機械のように乱れぬリズム。
それは幼いリラさんが、来る日も来る日も、このメトロノームの前で繰り返していた練習の記憶だ。
けれど、次第にその音は乱れ始める。
――タン、タ、ガーン!!

鍵盤を拳で叩きつける音。
そして、押し殺した泣き声。
『間違っちゃダメ。完璧じゃなきゃ』
『いい子でいなきゃ。お父様にも、お母様にも……誰にも愛してもらえない』
それは、今の堂々とした彼女からは想像もつかない、小さく震える孤独な独白。
このメトロノームは壊れているんじゃない。
幼い彼女が抱えきれずに吐き出した「弱音」や「恐怖」を、ずっと吸い込み続けていたんだ。
彼女の完璧さを守るための、身代わりとして。
4. 解決と結び:銀のデレ
「……はぁっ、はぁ……」
私は鍵から手を離し、大きく息を吐いた。
額には冷や汗が滲んでいる。

「何か、聴こえましたの?」
リラさんが、探るような目で私を見ている。
私は少し迷った。幼い彼女が泣いていたこと、孤独に怯えていたこと……それをそのまま伝えるのは、彼女の誇りを傷つけることになるだろう。
だから私は、言葉を選んだ。
「……この子は、少し疲れてしまったみたいです」
「疲れ?」
「ええ。リラさんの『頑張り』を、誰よりも一番近くで、ずっと聴いていましたから。貴方の張り詰めた気持ちを、この子が代わりに背負ってくれていたんです」
私はもう一度、鍵をメトロノームにかざした。
記憶の澱みを解きほぐし、労るように。
『もう大丈夫。彼女はもう、一人でも立てるから』
キィィン……。
鍵が優しい音色を奏で、メトロノームから黒いノイズが霧散していく。
再び、振り子を動かしてみる。
コチ、コチ、コチ……。
今度は、以前よりも少し柔らかく、けれど揺るぎない正確なリズムが刻まれた。
「……どうですか?」
リラさんは目を丸くし、じっとその音に耳を傾けていた。
やがて、ふいっと顔を背ける。
その白い頬が、ストーブの熱のせいだけではない赤みを帯びているのが見えた。
「……フン。悪くないわ」
彼女は腕を組み、私を見ずに呟いた。
「貴女のその『耳』……少しは役に立つようですわね。
……今日の紅茶は、特別に高い茶葉を開けて差し上げます」
いつも私の鼓膜を刺すような、彼女の纏う「張り詰めた銀色の音」。
それが今、ほんの少しだけ温度を持って、優しく響いた気がした。
(第4話へ続く)