1. 琥珀の残響 —蔵の街・爆走実況—
「寧亜ちゃん! 事件だよ! ううん、革命だよぉぉ!!」
放課後のホームルームが終わった瞬間、私の手首はオレンジ色の台風に掴まれていた。
料理 涼(リョウリ)。
彼女は私の返事も待たずに、廊下を、階段を、そして校門を、弾丸のような勢いで突破していく。
「ちょ、ちょっと涼さん!? どこへ……!?」
「腹が減っては戦はできぬ! 今日は栃木の『ソウル・フード』を体に叩き込むんだよぉぉ!!」
外は冬の入り口。
夕暮れの西日が、巴波川沿いの黒い蔵を琥珀色に染め上げている。
頬を刺す風は冷たいけれど、私の手を引く彼女の体温は、火傷しそうなほどに熱かった。
走るたびに重たい革鞄が腰を打ち、私のローファーが石畳の上で慌ただしい音を刻む。
1-1.『かねふくストア』の洗礼
「着いた! ここが聖地、『かねふくストア』だよっ!」
息を切らして辿り着いたのは、観光地エリアから少し離れた、地元の人々の活気に満ちたスーパーマーケット。
リョウリさんは迷いなく惣菜コーナーへ突撃し、一つのパックを恭しく掲げた。
「ジャジャーン! これぞ栃木の冬の王者、『しもつかれ』だぁぁ!!」
「……え?」
私はそのパックの中身を見て、言葉を失った。
それは……なんと形容すればいいのだろう。
鮭の頭、大豆、大根おろし、酒粕……それらが渾然一体となり、独特のベージュ色をしたペースト状の物体。
視覚的な美学(インスタ映え)とは対極にある、あまりにも土着的な存在感。

「見た目で判断しちゃダメ! ほら、一口!」
有無を言わさず口に運ばれる。
その瞬間。
ドォォォォォン……!!!
「っ!?」
私の脳内で、重低音のオーケストラが爆音を奏でた。
酒粕の芳醇すぎる香り、鮭の野性味、大根の粗い食感。
それは決して整った旋律(メロディ)ではない。
(すごい……! 低音(ベース)が暴れてる……!)
チェロとコントラバスを同時に弓で叩いたような、複雑でカオスな濁流。
けれど、不思議と不快ではない。厳しい冬を生き抜くための、生命力の振動(バイブレーション)が、胃袋から全身へと響き渡る。
1-2. 「山本総本店」:シャッターの向こうの記憶
「ふふん、すごい顔! でも元気が出たでしょ?」
私たちは店を出て、メイン通りを数歩歩いた。
けれど、先ほどまで弾むようだったリョウリさんの足が、ある建物の前でピタリと止まった。
そこは、明治の面影を残す重厚な見世蔵。
看板には『山本総本店』とある。
けれど、その入り口は固く閉ざされ、冷たいシャッターが降りていた。
「……ここね、大好きだったんだ」
リョウリさんの声から、急に彩度が落ちる。
「すっごく美味しい『あめのみや(飴ん棒)』があってね、お小遣い握りしめてよく来てたんだけど……少し前に、お店、閉まっちゃったんだ」
彼女の手が、寂しげに宙を彷徨う。
もう二度と開かない扉。もう味わえない味。
その喪失感が、冷たい風に乗って私に伝わってくる。

私は無意識に一歩踏み出し、歴史ある黒漆喰の柱に、そっと掌を当てた。
(聴かせて。貴方が覚えている歌を)
胸元の鍵を握りしめ、意識を集中する。
シャッターの冷たさが消え、耳の奥に温かい色が灯る。
――サラサラ、カサッ。
(これは、飴を包む紙の音……)
――トントン、グッ、グッ。
大きな銅鍋の中で、職人さんが竹べらを動かし、黄金色の餡を練り上げる規則正しいリズム。
そして、幾重にも重なる声。
『ありがとうね』
『また来るよ』
『おまけしとくね』
「……消えてないわ」
私は柱から手を離さずに、リョウリさんを見た。
「え?」
「お店は閉まっても、この建物がちゃんと歌を覚えているもの。
竹べらの音、飴を包む紙の音、そして『ありがとう』ってお客さんと交わした言葉……全部、ここに残ってる」
リョウリさんの瞳が揺れた。
建物は、ただの箱じゃない。そこに刻まれた記憶(音)は、誰かが覚えている限り、決して無音にはならないのだ。
1-3. 「HOULE coffee&icecream」:未来への息吹
「……そっか。そっかぁ……。よかった」
リョウリさんは、少し泣きそうな顔で笑うと、閉ざされた看板に向かって「ごちそうさまでした!」と深く一礼した。
「さあ! しんみりしちゃったけど、次は未来の音を聴きに行くよ!」
彼女が指差したのは、そのすぐ近く。
古い蔵の街並みの中に、突如として現れた白とガラスの洗練された空間、『HOULE(ウル)』。

プシューッ……カラン、カラン。
店内に入った瞬間、歴史の重奏から一転して、クリアな旋律が響き渡る。
エスプレッソマシンの軽やかな蒸気音。
グラスの中で氷が踊る、高い音。
(街は、形を変えていく)
失われる音もある。けれど、こうして新しく生まれる音もある。
私はカフェラテの温もりを掌に感じながら、思った。
このエスプレッソの音もまた、数十年後には誰かの「懐かしい記憶」になっていくのだろう。
「古い音と、新しい音。……どっちも、この街の大切な声なんですね」
「でしょでしょ! 栃木はね、音が重なってできてるんだよぉぉ!」
リョウリさんが、いつもの太陽のような笑顔に戻る。
過去への敬意と、未来への希望。
その二つを両手に抱えて、私たちは再び琥珀色の風の中へと走り出した。
2. 琥珀の残響 —川面の風と鉄板の熱—:幸来橋と水の記憶

「HOULE」の余韻を背に、私たちは倭町大通りから一本脇へ逸れ、巴波川(うずまがわ)にかかる幸来橋(こうらいばし)の上に出た。
冬の冷たい風が、川面を撫でて吹き抜けていく。
「うぅ〜っ、寒いっ! でも、この景色が一番『栃木』って感じがするよねぇ」
リョウリさんが肩をすくめながらも、嬉しそうに川を指差す。
夕陽を受けて黒く輝く蔵の列。風に揺れる柳の枝。
そして、水面の下から聴こえてくるのは、何百年もの間、舟を運び、人々の生活を支えてきた水の記憶。
サラサラ……トプン、トプン。
幾層にも重なるその音は、私の心を静かに洗い流してくれるようだった。
2-1. 北上:蚤の市通りの熱気
「心が洗われたところで……次は胃袋も温めなきゃね!」
リョウリさんの合図で、私たちは橋を渡らず、そのまま川沿いの遊歩道を北へと歩き出した。
左手には穏やかな川の流れ、右手には近代的な市役所の建物が見えてくる。
「ここだよ! 通称『蚤の市通り』!」
市役所の建物を右に見ながら、少し奥まった裏通りへ。
そこにあったのは、レトロな風情を残す小さなお店、『千成多幸亭(せんなりたこうてい)』。
店先からは、食欲をそそる出汁の香りと、白い湯気がもうもうと立ち昇っている。

カチャ、カチャ、カチャ。
ご主人が手際よくタコを切り、ピックで生地を回す小気味よいリズム。
それは、川沿いの静けさを背景音(バッキング)にした、軽快なパーカッションだ。
「はい、寧亜ちゃん! アツアツだよぉ!」
私たちは近くのベンチに腰を下ろし、大粒のたこ焼きを頬張った。
ハフッ、と息を吐くと、トロトロの生地とタコの弾力が口の中に広がる。
冷えた体に染み渡る、素朴で温かい出汁の味。
隣で「はふあふ!」と悶絶するリョウリさんの笑顔が、何よりの暖房だった。
2-2. 伏線:川風に混じる「不協和音」
幸せな時間だった。
……その音が、聴こえるまでは。
――ジジッ……ザザッ……。
「……っ!」
たこ焼きを飲み込もうとした瞬間、私の背筋が凍りついた。
川の方角から、風に乗って一瞬だけ鋭く走った異質な音。
水音でも、風音でもない。
無機質で、冷たくて、肌を粟立たせるような「電子ノイズ」。
(今の……なに?)
その周波数は、先日ネロさんの屋根裏部屋で聴いた、あの「ラジオ塔のノイズ」と酷似していた。
この川のライン……水脈に沿って、何かが「漏れ出して」いる?

「ん? 寧亜ちゃん、どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよぉ!」
リョウリさんの明るい声が、私の思考を現実へと引き戻す。
ハッとして横を見ると、彼女は何の屈託もない笑顔で、最後の一個を私に差し出していた。
「……いえ、なんでもないです。いただきまーす」
私は不安を飲み込むように、たこ焼きを口に放り込んだ。
今はまだ、この温かさに甘えていたい。そう思いながらも、私の耳はずっと川の暗がりを警戒していた。
2-3. 最北端の聖地「里」:熱気とソースの暴力
「さあ、エネルギー充填完了! いよいよ本日のメインイベントだよぉぉ!」
不穏な気配を振り切るように、リョウリさんは再び私を引いて走り出す。
さらに北へ。住宅街の路地裏へと深く潜り込んでいく。
辿り着いたのは、知る人ぞ知る名店『里(さと)』。
ガララッ、と扉を開けた瞬間、全身が「香り」の暴力に包まれた。
ジュワァァァァァァ!!!
「うわぁ……!」
狭い店内は、鉄板の熱気とソースの焦げる香ばしい匂いで充満している。
そして、何よりもその「音」。
カッカッ! ジャッ! ジャッ!
店主がコテを振るう音。麺が鉄板の上で踊る音。
それは先ほどの穏やかな川の音とは対極にある、激しく情熱的なジャズ・スタッカート。
私の心拍数が、強制的にビートに合わせて跳ね上がる。
「おまたせしましたー!」
運ばれてきたのは、茶色く輝く麺の山と、そこにゴロゴロと鎮座するジャガイモの塊。
湯気の向こうで、リョウリさんが今日一番の笑顔を見せる。

「これが『里』のじゃがいも入り焼きそば! 炭水化物×炭水化物の奇跡のコラボだよぉぉ!」
フーフーと息を吹きかけ、一口。
スパイシーなソースを纏った麺のコシと、ホクホクとしたジャガイモの甘み。
口の中で異なる食感がぶつかり合い、爆発的な旨味となって脳を揺らす。
(熱い……! うるさい……! でも、最高!)
さっきの川風のノイズなんて、もうどこかへ吹き飛んでしまっていた。
この圧倒的な「生」の熱量が、今の私には何よりも心地よかった。
3. 琥珀の残響 —約束のレシピ—:幸せな沈黙と「ボウル」の登場
「里」での熱狂的な食事を終え、私たちは再び倭町(やまとちょう)の大通りへと戻ってきた。
日はとっぷりと暮れ、街灯が黒い蔵の壁をぼんやりと照らし出している。
満腹感と、心地よい疲れ。
あれだけお喋りだったリョウリさんも、今は静かに私の隣を歩いていた。
ふと、彼女が足を止めた。
そこは、かつて街一番のパン屋があったという、今は更地になった場所の近くだった。
「……ねえ、寧亜ちゃん。ひとつ、聴いてほしい音があるんだ」
リョウリさんは、ずっと背負っていたリュックサックから、ゴソゴソと何かを取り出した。
それは、使い込まれて変色した、古びた銅製のミキシングボウル。
表面は無数の傷で覆われ、底の方は何度も台に打ち付けられたせいで少し歪んでいる。
けれど、不思議と汚らわしさはなく、むしろ神聖な光沢を放っているように見えた。
「これね、私が料理を始めるきっかけになった、師匠の形見なんだ。
……でも最近、この子からの声が、遠くなっちゃった気がして」
いつも太陽のように笑う彼女の顔に、初めて見る、今にも泣き出しそうな「陰り」が落ちていた。
私は何も言わずに、その冷たい銅の縁に指を添えた。
泣きの調律:職人のリズム
――カシャン、カシャン、カシャン。
胸元の鍵を握りしめるまでもなく、その音は私の指先から心臓へと流れ込んできた。
それは、今日一日聴いてきた賑やかな音とは正反対の音だった。
深夜の厨房。
換気扇が回る低い音だけが響く空間で、たった一人。
泡立て器(ホイッパー)がボウルの側面を叩く、金属的で、孤独なリズム。
(重い……。でも、なんて優しいの)
『……涼が、笑うからなぁ』
『あの子に、一番うまいものを食わせてやりてぇなぁ』
聴こえてきたのは、荒い息遣い。
病魔に侵され、思うように動かない老体を叱咤しながら、それでも彼は手を止めない。
ただ、幼いリョウリさんが「おいしい!」と笑う、その瞬間のためだけに刻まれた、祈りのようなビート。
「……聴こえます」
私が静かに告げると、リョウリさんの肩がビクッと震えた。

「深夜、たった一人で。貴女の笑顔を思い浮かべながら、クリームを立てている音。
『あの子に美味しいと言ってもらいたい』……その一念だけで、痛む体を動かしていた、職人のリズムです」
「……う、うぅ……!」
リョウリさんが、ボウルを抱きしめてうずくまる。
「怖かったんだ……。私が新しい料理を作るたびに、師匠の音が、私の音で上書きされちゃう気がして……。この音が消えたら、師匠がいなくなっちゃう気がして……!」
彼女の明るさは、この喪失感を隠すための強がりだったのかもしれない。
私は彼女の背中に手を添えた。
今はまだ、調律はいらない。ただ、彼女が涙を出し切るまで、この夜が優しく包んでくれるはずだから。
4. 『すずなり屋』:笑顔のベビーカステラ
ひとしきり泣いた後、リョウリさんは赤くなった目で顔を上げた。
冷たい夜風が、少しだけ優しく感じる。
「……お腹、空かない?」
「えっ? あれだけ食べたのに?」
私が目を丸くすると、彼女は「えへへ」といつもの調子で笑った。
私たちの鼻先をくすぐったのは、甘くて、どこか懐かしいバニラの香り。
すぐ近く、スタバの隣にある小さなお店『すずなり屋』。
カシャン、ポコン。カシャン、ポコン。
機械がリズミカルに動き、鈴の形をしたベビーカステラを次々と焼き上げている。
「おじちゃん! 一袋ちょうだい!」
リョウリさんが受け取ったアツアツの紙袋からは、幸せな湯気が立ち昇っていた。
彼女は一つを口に放り込み、もう一つを私にくれた。
「……リョウリさん」
私はカステラの温かさを掌で感じながら、彼女に伝えた。
「音は、消えません。上書きされるんじゃないんです。
師匠のリズムの上に、貴女のリズムが重なって、新しい音楽になるだけ。
……形はなくなっても、貴女が作り続ける限り、その『美味しい』という音は、何度だって新しく響き始めます」
リョウリさんは、口いっぱいにカステラを頬張ったまま、大きく頷いた。
その目尻にはまだ涙の粒が光っていたけれど、琥珀色の瞳は、街灯の光を受けてキラキラと輝いていた。
「ん……! 甘いね、寧亜ちゃん!」
「ええ。とっても」
パッ、パッ、パッ!
私の耳には今、彼女の心臓が刻む、力強いスタッカートが聴こえていた。
それはもう、悲しみの音じゃない。
明日、また新しい料理を作るための、希望のビートだ。
「さあ、帰ろう! リラ店長にお土産買って帰らないと、また怒られちゃうよぉぉ!」
「ふふ、そうですね。急ぎましょう」
私たちは夜の蔵の街を、軽い足取りで駆け出した。
お腹も、心も、満たされた温かさを抱えて。

(第6話へ続く)