解析される虚空、あるいは五十年前の明後日
「――はぁ、はぁ、はぁっ……!」
私は夜の巴波川沿いを、何かに追われるように走り抜けた。
黒漆喰の蔵たちが、テクスチャの剥がれた背景画のように不気味に私を見下ろしている。
背後には誰もいない。文学館の重厚な扉はとうに閉ざされ、夜の闇が沈殿しているだけだ。
けれど、私の耳の奥では、あのオルゴールの旋律が――まだこの世に存在しないはずの未来の曲が、壊れたレコードのようにリフレインし続けていた。
「ネロさん……! 開けて、ネロさん!」
私は息を切らして『GRAVITY』の店舗へ飛び込み、軋む木造階段を駆け上がった。
屋根裏部屋(ロフト)の扉を乱暴に叩く。
数秒の沈黙。
中から、舌打ちのような電子音がしたあと、カチャリとロックが外れた。
「……うるっさ。何? レイドバトルでも始まったわけ?」
ドアの隙間から、深いフードを目深に被ったネロが顔を覗かせる。
眠そうな目は、私の青ざめた顔と荒い呼吸を見て、少しだけ面倒くさそうに細められた。
「……はぁ。強制イベント発生ってことね。入れば?」
屋根裏部屋は、いつものように奇妙な空間だった。
築百年の太い梁(はり)が剥き出しになった天井の下、最新鋭のサーバー機器と複数のモニターが青白い光を放っている。
ネロにとってのコックピットであり、現実世界(リアル)から逃避するためのセーブポイント。
「……ほら、回復アイテム(エナドリ)。MP切れてる顔してるよ」
放り投げられた缶を震える手で受け取り、私は一気に喉に流し込んだ。
強烈なカフェインが、凍りついた思考を無理やり再起動させる。
私は途切れ途切れに語った。文学館での出来事。50年前のアルバム。顔のない生徒たち。そして、未来を奏でるオルゴールと、アイリス先生の言葉。
ネロは椅子の上で体育座りをしながら、つまらなそうに聞いていた。
「……ふーん。タイムパラドックスに、顔なしバグ?
典型的なホラーゲームの演出じゃん。シナリオライター、手抜きすぎない?」
「バグじゃ……ないんです。私の耳には、確かに……」
「……ん。わかってる。アンタの『耳』はチート性能だもんね。
観測したなら、フラグは立ってるってことか。
……あー、めんどくさ。とりあえずそのキーアイテム(写真データ)見せてみなよ。裏(コード)から覗いてやるから」
ネロが気怠げにキーボードへ手を伸ばす。
カカカカッ、という音が響く。先ほどまでの怠惰な態度とは裏腹に、入力速度は人間離れしていた。
「……うわ、何これ。キモッ」
メインモニターに、あの不気味な集合写真が表示される。
ネロは嫌そうに顔をしかめた。
「これ、顔のテクスチャがバグってるんじゃない。
無理やりデータを詰め込みすぎて、画像処理が追いついてないだけ。
……容量(サイズ)デカすぎ。圧縮ファイルの塊じゃん」
「データ……? 生徒たちの顔に?」
「そう。顔のピクセルを犠牲にして、裏にびっしりコードが書き込まれてる。
ステガノグラフィ……にしては、悪質すぎ。隠す気ないでしょこれ」
ネロがエンターキーを叩く。
瞬間、画面上に赤い警告ウィンドウ(エラーログ)が無数にポップアップした。
***
「……は? 意味わかんない。クソゲー確定」
数分後。
ネロは椅子の背もたれに深く沈み込み、呆れたように天井の梁を見上げていた。
モニターには、解読された文字列の羅列と、複雑な波形が表示されている。
「この暗号化(ロック)、今の技術レベルじゃ解除不可。
量子コンピュータでも数十年かかる。
……今のプレイヤーの装備レベルじゃ、絶対に開けられない宝箱ってこと」
「どういう……ことですか?」
「……ん。これ見て」

ネロが指差したのは、以前解析した「旧・ラジオ塔」からの信号波形と、今回の写真データの比較画面。
二つの波形は、完全に一致(マッチ)していた。
「写真のデータと、ラジオ塔の信号。リソースは同じ。
でも、本当のバグはここ」
彼女が指差したヘッダー情報。
そこに記されたタイムスタンプを見て、私は息を呑んだ。
『2076年 11月22日』
「……2076年?」
「そう。サーバーの時計が狂ってるんじゃなきゃ、発信元は50年後の未来。
50年後の誰かが、今の時代に向けて特大のパケットを送り続けてる。
……ラグ(遅延)にしては長すぎでしょ」
ネロは冷めた目で、画面上のアイリス先生を見つめた。
「で、その受信機(レシーバー)になってるのが、このNPC……アイリスってわけ」
屋根裏部屋の空気が、急に重くなった。
冷却ファンのブーンという音が、不気味に歪む。
(……聴こえる)
私の耳が、モニターの奥から響く「音」を捉えた。
それは、アイリス先生の鼻歌。
けれど、何かがおかしい。
『……う、お、と、げ、か……』
「……うわ、何その音。キモチワル」
ネロがヘッドホンをずらして耳を塞ぐ。
「逆再生? ……生理的に無理。SAN値削れる音(ノイズ)だわ。
物理法則無視して、未来から過去へ干渉してくるとか……この世界の物理エンジン、どうなってんの?」
ネロの瞳に、初めて「恐怖」の色が浮かんでいた。
自分の知っているルール(論理)が通用しない。
それはゲーマーにとって、データ消失以上の絶望だ。
***
「……行かなきゃ」
私は立ち上がった。
逆再生の鼻歌は、助けを求める悲鳴のように、私の脳を揺らしている。
「……は? どこ行く気? ログアウト?」
「先生のところへ。
……バグだとしても、エラーだとしても、私は『調律師』ですから」
私は胸元の鍵を強く握りしめた。
「彼女が発しているこの不協和音……誰かが聴いてあげないと、彼女自身が壊れてしまいます」
「……待ちなよ、自殺志願者(プレイヤー)」
ネロが私のパーカーの裾を掴んだ。
「相手のレベルが見えないの? 推定50年分の経験値(XP)持ってるラスボスだよ?
アンタのその『鍵』程度の初期装備で突っ込んだら、ワンパンで沈むって。
……即死イベント回収したいなら止めないけど」
「それでも」
私はネロの手を、そっと解いた。
「私は攻略本通りに進むのは好きじゃないんです。
……それに、もし先生が泣いているなら、それはゲームの演出なんかじゃありません」
「……ッ、あーもう! 勝手にすれば! バカ!」
ネロの捨て台詞を背に、私は屋根裏部屋を飛び出した。
背後で「……セーブもしてないくせに」と悪態をつく声が聞こえた気がした。
店の外に出ると、どす黒い夜空が広がっている。
その向こう側、巴波川のほとりに佇む文学館が、巨大なダンジョンのように黒い影を落としていた。
私の耳にはもう、日常の音は聴こえない。
ただ、世界をバグらせるような、巨大な時計の秒針の音だけが、カチ、カチ、と脳内でカウントダウンを始めていた。
絶対的な静寂、あるいは最果ての揺りかご
冬の夜気は、肺を切り刻むように冷たかった。
私は巴波川(うずまがわ)沿いの遊歩道を、もつれる足で走っていた。
昼間は観光客で賑わうこの場所も、深夜には別の顔を見せる。
黒く淀んだ川面は、空の星すら映さないほどに重く、まるでこの世の底へと続く裂け目のようだった。
「……はぁっ、はぁっ……!」
幸来橋(こうらいばし)のたもと。
そこに、彼女はいた。
街灯の光が届かない闇の中、欄干に寄りかかる白い影。
アイリス先生は、川面を見つめたまま微動だにしない。
その姿はあまりに静かで、背景の闇に溶けてしまいそうだった。
「……先生」
私の声は、震えていた。
恐怖か、寒さか、それとも怒りか。
彼女はこちらを見向きもしない。ただ、川の流れる音だけが、私たちの間に横たわっている。
「ネロさんが、解析しました。
あの写真。そして、旧ラジオ塔からの信号。
……発信源は、50年後の未来。そしてその受信機になっているのが、貴女だと」
私は一歩、踏み出した。
「答えてください。貴女は誰なんですか?
未来から来たのですか? それとも、50年前からずっと、同じ時間を繰り返しているのですか?」
その問いかけに、ようやく白い影が動いた。
アイリス先生が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その顔には、いつもの穏やかな慈愛に満ちた微笑みが張り付いていた。
けれど、その瞳だけが、硝子玉のように何の感情も映していない。
「……リネア」

鈴を転がすような、美しい声。
けれどそれは、私の知っている先生の声ではなかった。
どこか遠く、何光年も離れた星から届いたような、希薄な響き。
「貴女は、悪い子ですね。
折角、綺麗な箱庭(まち)を用意してあげたのに。
……聴いてはいけない音に、近づきすぎましたわ」
***
(聴いてはいけない……?)
本能が警鐘を鳴らしている。
逃げろ、と。
これ以上踏み込めば、私の自我(こころ)が砕け散ると。
けれど、私は退けなかった。
あの逆再生の鼻歌。
未来からの信号に混じっていた、悲痛な叫び。
もし彼女が、たった一人で「時間」という檻に閉じ込められているなら――。
「……いいえ、聴きます。
私は『調律師』ですから。貴女の音が狂っているなら、私が直す!」
私は叫び、胸元のアンティークの鍵を鷲掴みにした。
精神を研ぎ澄ます。
いつものように、対象の周波数に合わせ、共鳴(レゾナンス)させる。
相手はアイリス先生自身。彼女の心の核(コア)へ、強制的にアクセスする!
「私に……聴かせて!!」
鍵を掲げた、その瞬間だった。
――――――――――。
世界から、音が消えた。
「……ぁ?」
キーンという耳鳴りではない。
風の音も、川のせせらぎも、遠くの車の音も、そして私の心臓の音さえも。
すべてが、唐突に「死滅」した。
(なに……これ……?)
それは「無音」ではない。
「絶対的な沈黙(アブソリュート・サイレンス)」という名の、質量を持った暴力だった。
深海一万メートルに生身で放り出されたような、凄まじい圧力。
私の「聴く力」が、その巨大すぎる虚無に飲み込まれ、押し潰されていく。
これは、人の心じゃない。
宇宙の果て。
光も音も届かない、永遠の孤独の墓場。
「がっ……、あ……」
鼻の奥から、熱いものが垂れた。
視界が赤く染まる。鼻血だ。
鼓膜が内側から破裂しそうな激痛。
立っていられない。膝から崩れ落ち、冷たい石畳に手をつく。
(合わせられない……大きすぎる……!)
アイリス先生は、微笑んだまま、ただそこに立っている。
彼女は何もしていない。
ただ、その身に纏っている「沈黙」が、あまりに強大すぎて、近づく者の存在を圧殺してしまうのだ。
「……おやすみなさい、リネア。
忘れてしまえば、また楽しいお茶会ができますよ」
遠くで、誰かが囁いた気がした。
意識が、沈黙の泥沼へ引きずり込まれていく。
暗い。寒い。何も聴こえない。
***
視界がブラックアウトする、その寸前。
私の耳は、その「絶対的な静寂」の最深部で、微かな、本当に微かな「綻び」を捉えた。
それは、未来からの信号でも、冷徹な拒絶でもなかった。
迷子になった幼い子供のような、震える声。
『……ごめんなさい』
『……私を、置いていかないで』
(……せん、せい?)
手を伸ばそうとした。
けれど、指先はもう動かない。
カラン……。
私の手から、銀の鍵が零れ落ちる音がした。
それが、私が聴いた最期の音だった。
世界は、完全な闇に閉ざされた。
(第6話・完 / 第7話『アイリスの箱庭』へ続く)