調律師の休日 —蔵の街、取材ノートの残響—
ガタン、と小気味よい振動を立てて、両毛線の電車がゆっくりと速度を落としていきました。窓の外には、冬の澄んだ陽光を浴びる栃木市の街並みが広がっています。
電車が止まり、プシューという排気音と共にドアが開く。ホームに降り立った私の耳に真っ先に届いたのは、あの旋律でした。
栃木駅の発車メロディ、《栃木市民の歌》。
物語の執筆中、私はこの街を「音が死に絶えた場所」や「不気味なノイズが支配する異界」として描くことが多々ありました。けれど、実際に降り立ったこの場所で聴くそのチャイムは、あまりにも優しく、日常という名の安堵感に満ちていました。

「……おかえりなさい」
誰に言われるでもなく、そんな言葉が心の奥底から漏れ出します。物語の中では、私はここで「孤独な異邦人」として震えていたけれど、現実の私は、この街の持つ穏やかな重力(グラビティ)に、温かく抱きとめられているのを感じていました。
改札を抜け、駅舎を出ると、冷たくも瑞々しい冬の風が吹き抜けます。私は愛用のマフラーを少しきつく巻き直し、一歩、また一歩と、自分が「生み出し、そして歩いた」街へと踏み出していきました。
***
駅から巴波川(うずまがわ)へと向かう道すがら、私の目は無意識に「物語の断片」を探してしまいます。
古い蔵を改装した店舗、重厚な見世蔵が並ぶ通り。かつて町役場だったという木造りの文学館――。
現実の街並みは、私がノートに書き連ねた文字よりもずっと色彩豊かで、賑やかな響きに満ちています。物語ではアイリス先生が潜んでいたあの静寂の洋館も、今日は観光客の楽しげな話し声や、近所の子供たちが走り去る足音を吸い込み、穏やかな午後の光に溶け込んでいました。
(物語の中では、あんなに怖かったのに)
自らが生み出した恐怖や悲しみ。それを現実の風景に重ね合わせると、不思議な感覚に陥ります。まるで、透明なフィルムに描かれた物語を、現実という厚みのあるキャンバスに透かして見ているような。その重なり(オーバーレイ)の中にこそ、私が本当に伝えたかった「残響」があるような気がするのです。
やがて、私は幸来橋(こうらいばし)のたもとに辿り着きました。

欄干に手をかけ、黒く澄んだ巴波川の水面を覗き込みます。ここは、第6話から第8話にかけての、あの激闘の地。私がアイリス先生の深淵に触れ、音を失い、絶望の淵で膝をついた場所。
あの日、私の耳を圧殺した「絶対的な沈黙」は、今、この場所には微塵もありません。
代わりに聴こえてくるのは、川面を滑るように泳ぐカモたちの水音。風に揺れる柳の枝が擦れる音。そして、遠くで時を告げる鐘の音。
物語のアイリス先生は、この川の底を「巨大なレコード盤」に見立て、失われた過去を再生し続けていました。けれど、現実の川はただ、一秒たりとも留まることなく、未来へと流れ続けています。
「先生、今日の水はとても綺麗ですよ」
ふと、風の中にハニーブロンドの香りが混じったような気がして、私は隣を振り返ります。もちろん、そこには誰もいません。でも、私の「調律師」としての感覚が、古い蔵の影や石畳の隙間に、彼女が50年間抱え続けてきた孤独の微熱を感じ取っていました。
物語の中で彼女を「救う」と決めたあの日。私はここで、自分自身の孤独とも対峙したのです。現実の穏やかな風は、そんな私の執筆の苦しみを労うように、冷たくも優しく頬を撫でていきました。
***
川沿いを北へ少し歩き、賑わいから一歩離れた路地裏に、ひっそりと佇む一軒のカフェを見つけました。
物語に登場させた『GRAVITY』のような重厚な蔵造りではなく、そこは長い歳月を重ねた木の呼吸が聞こえてきそうな、平屋の古民家を改装した場所。入り口の使い込まれた木製の引き戸に手をかけ、そっと横に滑らせます。
「ガラガラ……」
乾いた、けれどどこか懐かしい木の擦れる音が、私の耳を優しく撫でました。 蔵の分厚い扉が持つ、外界を拒絶するような重みとは違う。訪れる人をそっと迎え入れ、日常の延長線上へと誘うような、生活の残響が宿る音。
中へ一歩踏み入れると、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、薪ストーブの柔らかな熱気が私を包み込みます。太い木の梁が縦横に走る天井、使い込まれて深い艶を帯びたカウンター。ここは、リラさんの『GRAVITY』のモデルにさせてもらった場所の一つでもあります。
私は窓際の小さな席に座り、深煎りのコーヒーを注文しました。
バッグから取り出したのは、第一部を書き終えたあとも手放せない、分厚い取材ノートです。ページをめくれば、そこには物語の初期構想や、没になったセリフ、そして街を歩いて拾い集めた「音のスケッチ」がびっしりと書き込まれています。
コーヒーを一口。舌の上で転がる心地よい苦味。それが喉を通る音さえも、この静かな空間では一つの音楽のように響きます。
(……ん。アンタ、現実の観光地で聖地巡礼? 暇(ヒマ)すぎでしょ。……MP回復したら、さっさと次のクエスト始めなよ)
不意に、頭の中でネロさんの気怠げな声がしました。彼女なら、きっと今の私を見て、眼鏡を直しながら溜め息をつくのでしょう。
(寧亜、あまり遅くなってはいけませんわ。夜の蔵の街は冷えますから。最高の一杯を用意して、貴女の帰りを待っています)
リラさんの、凛としていて慈愛に満ちた声も聴こえます。彼女の奏でる低音は、いつだって私の迷いを断ち切ってくれる。
(寧亜ちゃーん! 次の回では、もっと美味しいものいっぱい書くんだよっ! 蚤の市通りのたこ焼き、本当においしいんだからぁ!)
リョウリさんの、弾けるような明るい声。彼女の声は、物語を彩る黄金色の光そのもの。
私は思わず、独りでにやけてしまいました。周囲のお客さんからは、ただの奇妙な一人旅の少女に見えているかもしれません。でも、今の私には、彼らの存在が現実の知人たちと同じくらい、血の通った存在として感じられるのです。
私がこの街で見つけたものは、歴史的な景観や美味しい食べ物だけではありませんでした。それは、どんなに時間が残酷に流れても、誰かがその音を聴こうと願う限り、想いは消えないという確信。
アイリス先生が守り続けた50年間のアーカイブ。それを、新しい「四重奏(カルテット)」の音で塗り替えるのではなく、重なり合わせて新しい旋律を作る。そのためのヒントが、この現実の栃木市の至る所に散りばめられていました。
私はペンを手に取り、真っ白な次のページに、力強く最初の一音を書き込みました。
「物語は、まだ始まったばかりです」
第二部、『未来への周波数』。
これから私たちは、2076年から届く信号の謎に挑み、1976年の青い髪の少女の真実へと迫っていきます。現実のこの穏やかな街の地下に、もし本当に、世界を書き換えるほどの巨大な「バグ」が眠っていたとしたら――。
コーヒーを飲み干し、私は席を立ちました。
外は、さらに夕暮れの深みが増し、蔵の街のシルエットが琥珀色に染まっています。
物語と現実。その二つの重力(グラビティ)が引き合う場所で、私はこれからも「調律」を続けていきます。
次に私が紡ぐ旋律が、貴方の耳に心地よい残響を残せますように。
調律師の休日は、終わりです。さあ、店に戻って、みんなと一緒に新しいお茶会の準備を始めましょう。
星名 寧亜(リネア・ノクターン)