PR 共鳴するテクスト

『蔵の街のグラビティ』第23話・後編『始まりの地 —夜風に弾ける乾杯の音—』

「……みんなには、内緒よ?」
耳元をかすめた彩莉栖先生の吐息は、いつも図書室で聴く静かな声とはまるで違って、驚くほど甘く熱を帯びていた。

お祭りの喧騒がふっと遠のき、世界に先生のトロンとした瞳と、すぐ横から押し寄せてくる圧倒的な体温だけが残されたような錯覚に陥る。
川風を遮るようにさらに距離を詰めてきた先生の身体は、上着越しでもはっきりと分かるほど柔らかくて、ぴったりと密着した肩や腕のラインから、わたしの五感へ容赦なく大人の女性の香りが流れ込んできた。

ドイツビールを美味しそうに喉へ流し込み、頬をほんのり赤く染めた先生は、完全にガードの緩んだ『絡み酒モード』全開だ。
テーブルの下で本数限定のガラスボトルを愛おしそうに抱えながら、悪戯っぽく微笑むその横顔があまりにも綺麗で色っぽくて、わたしの心臓はさっきから早鐘のように激しく脈打ち続けている。

「あ、あの、彩莉栖先生、これ、いくらなんでも近すぎます……っ!」
顔がカッと火を噴きそうなほど熱くなるのを自覚しながら、わたしは椅子の端で身を固めることしかできなかった。

(……リョウリちゃん、未希ちゃん、お肉もポテトももういいから、一秒でも早く戻ってきて……っ!)
心の中でそんな絶叫を上げた。

孤高のブーメランと、他愛のない三重奏

「お待たせなんだよ、ねーあ!
未希ちゃんと一緒に、フライドポテト山盛りと、美味しそうなのいっぱい回収してきたよーっ!」
「ちょっとリョウちゃん、両手にそんなに抱えながら走ったら危ないってば……!」

橋の向こうからドタバタと大きな足音を響かせて、揚げ物とお肉の猛烈にジューシーな香りをまとった二人が戻ってきた。
リョウリちゃんがテーブルにどさりと広げたのは、容器からはみ出すほどのポテトだけではない。
通りがかりに大きな鉄板から漂ってきた、お肉の猛烈に香ばしい匂いと「ジューッ!」という小気味いい音に、どうしても抗えなかったらしい。
タキモトハム直営店『ルッケルヴェルト』の店先に吸い寄せられるようにして一点買いしてきたという、特製のウインナーとメンチカツの包みだった。

「……ふふ。もう少しゆっくり選んできてくれても、良かったのだけれど」
彩莉栖先生はわたしの耳元にそんな甘い独り言をぽつりと残してから、すっといつもの綺麗な姿勢に背筋を伸ばした。
楽しそうな足音とともに、わたしの体にかかっていた強烈な重圧がようやく霧散する。

(……たすかった……)
ライフゼロ寸前で間一髪救出されたわたしは、大きく息を吐きながら、冷え切ったジュースの缶を額に当てて熱を冷ました。

「ほらほら、冷めないうちにみんなで食べよう! はい、未希ちゃん、メンチカツ半分こね!」
「あ、ありがとうリョウちゃん。……わ、ソースなしでも、パン粉の風味が最高ね」
ザクザクの衣の中から溢れる玉ねぎの甘みとふっくらした肉の旨みに、未希ちゃんが嬉しそうに頬を緩める。
リョウリちゃんはといえば、ケチャップとマスタードをたっぷり塗った『宇都宮餃子風グリルウインナー』を豪快に噛みちぎっていた。

「んんんーっ!! 皮がプリッとはじけて、肉汁がもの凄く溢れてくるよ! ねーあ、これ本当に餃子の味がするんだよっ!」
「ウインナーなのに餃子の味って、どういうこと?」
わたしが笑いながらポテトをつまんでいると、すかさず先生が箸を伸ばした。

「それじゃあ、私も一口いただこうかしら」
先生はウインナーをそっと掴み、添えられた酸味のあるザワークラウトを一緒に乗せて、上品に口へと運んだ。
もぐもぐと美味しそうに頬張ったあと、手元のプラスチックカップを傾けて、残っていたビールをゴク、ゴク、と少し急ぐように喉を鳴らして飲み干す。
「……ふぅ。この酸味がウインナーの脂っぽさを綺麗に消してくれて、お酒がますます進んでしまいそうだわ」

嬉しそうにカップを揺らす彩莉栖先生のトロンとした瞳を見て、リョウリちゃんが首を傾げた。
「あれ? アイちゃん先生、なんかいつもより顔が赤くない?
……あーっ! テーブルの下に見たことないオシャレなボトルが隠してあるーっ!」

「あら……ふふ、見つかっちゃったかしら?」
先生は悪戯がバレた子供のように小さく舌を出し、ガラスボトルを抱え直した。

「えーっ、ずるい! アイちゃん先生、そのオシャレなボトル、ちょっと近くで見せてよー!」
料理人としての好奇心からか、リョウリちゃんは目を輝かせてボトルのラベルを覗き込もうとする。

「ダメよ、これは大人の秘密」
すかさず彩莉栖先生は人差し指を唇に当てて、お茶目にいたずらっぽく笑った。

やっぱり、かなりお酒がまわってきているみたいだ。

「よし、アイちゃん先生はここでまったりお留守番だね!
せっかくの席がなくなっちゃうともったいないし、三人で、もっと美味しいものたくさん探して戻ってこよう!」
「賛成。先生をこの人混みに連れ出すのはちょっと心配だしね」
リョウリちゃんの提案に未希ちゃんも頷き、わたしたちが席を立とうとすると、先生がふにゃりと上機嫌に手を振った。
「はーい、いってらっしゃい。美味しいお土産、期待しているわね?」
トロンとした目のまま見送ってくれる先生を特等席に残して、わたしたちは追加の料理を求めて、再び賑やかな屋台エリアへと歩き出した。

ライトアップされた川面を眺めながら、お祭りの熱気あふれる雑沓を三人で歩いていると、ふと、前方を歩いていたリョウリちゃんが足を止めた。
「あれ? あそこにいるのって……宵ちゃんじゃない!?」

リョウリちゃんが指さした先、少し人混みが途切れた川沿いの小道に、ひときわ目を引く艶やかな漆黒のストレートロングヘアの少女が立っていた。
クリームホワイトのゆったりとしたケーブルニットカーディガンを羽織り、ネイビーのマーメイドマキシスカートが、すれ違う大人の誰もが振り返るほどスラリとした抜群のプロポーションを美しく引き立てている。
同じ星霜高校の3年生であり、そのあまりの美貌と完璧さから『星霜の孤高姫』なんて大層な二つ名で噂されている、同級生の神楽坂宵さんだった。

「おーい、宵ちゃーん!」
リョウリちゃんが元気いっぱいに手を振りながら、躊躇なくその高嶺の花の領域へと突っ込んでいく。

「……あら」
声をかけられた神楽坂さんは、小さなキルティングのバッグを肩にかけ直しながら、ゆっくりとこちらを振り返った。
17歳とは思えないほど端正で涼しげな顔立ちに、お祭りの灯りが美しく反射する。
彼女は少し気怠げな、静かなトーンの声を落とした。
「……スズリさん、それに星名さんも。こんな人混みの中で私を見つけるなんて、あなたたちも物好きね」

「物好きだなんて人聞きが悪いよぉ! 私たちは今からあっちの美味しいお店に行くところなんだ!
宵ちゃんもいっしょに美味しいもの食べに行こうよ?」
「ちょっとリョウちゃん、誘い方が急すぎるよ……!」
未希ちゃんが苦笑交じりにツッコミを入れる中、神楽坂さんは手に提げていたコンビニの小さなレジ袋をわずかに持ち上げてみせ、静かに首を横に振った。

「……お気持ちは嬉しいけれど、私はここで失礼するわ。
近くのコンビニに夜食を買いに来たついでに、少し灯りに惹かれて立ち寄っただけだから。
……それに、これから夏コミのサークル出展に向けて、小説の原稿を書かなくてはならないの。
あまりゆっくりしている時間はないわ」

「えっ、コミケ……っ?」
その単語が耳に届いた瞬間、それまでおっとりと微笑んでいた未希ちゃんの身体が、文字通りピクッと小さく跳ね上がった。
いつもは萌え袖の奥に両手を隠して、一歩引いた場所で静かに佇んでいる彼女の瞳が、いまは微かな、けれどひどく深い熱量を帯びて、神楽坂さんの提げるレジ袋――透けて見える眠気覚ましの缶コーヒーやエナジードリンクの群れ――をじっと見つめている。
それは、どこか遠い場所にある眩しい熱気と喧騒を思い起こすような、ひどく切なくて複雑な眼差しだった。

「……白音さん? 何か私の買い物に、論理的な問題でもあったかしら」
「う、ううん……! なんでもないの。
神楽坂さんって、そういう……自分の熱量を形にする場所に、まっすぐ向かっているんだなって。
ちょっと、その……格好いいなって、思って」
神楽坂さんの怪訝そうな声に、未希ちゃんはハッと我に返ったように視線を泳がせ、胸の前でぎゅっと萌え袖を握りしめた。
一瞬だけ声がかすれ、寂しげに微笑んだ彼女の横顔を、わたしは胸に小さな引っかかりを覚えながら見つめることしかできなかった。

「相変わらずストイックだねぇ、宵ちゃんは!
宵ちゃんって集中すると、教室でもお昼休みずっとノートに向かってたりするもんね」
リョウリちゃんが感心したように腕を組むと、神楽坂さんは少しだけ頬を朱に染め、いつもより幾分か早口になって言い返した。
「子供扱いしないで。私はもう立派な3年生よ。スケジュール管理くらい、自分で完璧にこなせるわ」
完璧に見える『孤高姫』の防壁が崩れて、学年最年少らしい年相応の強がりが漏れ出すこの瞬間が、たまらなく微笑ましい。

「……もう。からかわないでくれないかしら。原稿の締め切りは、容赦なく迫っているのよ」
神楽坂さんは小さく溜息を吐くと、カーディガンの裾を整え、バッグを肩にかけ直した。
「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。
星名さんも……いくら明日がお休みだからって、あまり夜遊びが過ぎると、生活リズムが崩れるわよ。……じゃあね」

「はーい、原稿がんばってねー宵ちゃん!」
「神楽坂さん、あんまり無理しないでね……?」
リョウリちゃんが元気いっぱいに手を振り、未希ちゃんが気遣わしげに声をかける。
神楽坂さんは背を向けたまま、小さく一度だけ、応じるようにひらひらと手を振り返してみせた。

「うん、神楽坂さんもね。……あ、原稿がんばって」
わたしが苦笑交じりに見送りの言葉を口にしつつ、
(……徹夜用のエナジードリンクを大量に買い込んでる人に言われても、ちっとも説得力がないんだけどな……)
と心の中でそっと突っ込むのを余所に、彼女は人混みの向こうへと品よく消えていった。

「ふふ、宵ちゃん、やっぱり格好いいなぁ……。
よし! 私たちも負けずに、もっとお祭りを楽しんでエネルギーを補給しよう!」
神楽坂さんの背中を見送ったあと、再び歩き出したわたしたちは、道の途中で『満腹B級スタジアム』という、なんとも身も蓋もない看板を掲げた大きな屋台に引っかかった。
香ばしいソースの匂いに抗えず、リョウリちゃんが焼きそばを二つ購入し、三人でパックを突っつく。

もぐもぐと口を動かしていたリョウリちゃんが、お箸を咥えたまま、ふと真顔になった。
「……んー。このパック越しに伝わってくる人肌の温かさ、モソモソ食感がお祭りっぽくてなんだか落ち着くね。
キャベツはシャキシャキだし、ソースもシンプルなのに、どこか独創的な味だねっ」
「ちょっとリョウちゃん、お店の目の前でそんな真剣にレシピの分析を始めないの。ほら、店員さんがこっち見てるってば……っ」
リョウリちゃんの絶対味覚ゆえの職業病に、未希ちゃんが苦笑交じりにその肩を軽くつつく。
「でも、このソースの匂いって、なんだかすごく安心するよね! お祭りならではの味っていうかさ。
急いで持って帰ればまだ温かいままだし、早く持っていこ!」
「そうだねっ! 先生、ビールを飲みながら待っててくれてるもんね!」
そんな他愛のないやり取りを繰り広げながら、わたしたちは焼きそばのパックを大切に抱え、お留守番している先生の元へと、賑やかな人混みの中を笑顔で引き返すのだった。

川風の冷たさと、みちのくの煙

「アイちゃん先生、お待たせー! 焼きそば、無事に確保してきたよっ!」
リョウリちゃんがパックをテーブルに置くと、お留守番していた先生がふにゃりと目を細めた。

「まぁ、お祭りの焼きそばなんて本当に久しぶり。ふふ、嬉しいわ、お留守番していたご褒美かしら」
トロンとした瞳のまま、先生は割り箸をパチンと割り、パックにぎゅっと詰まった焼きそばを一口そっと口に運んだ。

二十メートルほど離れた特設ステージから、ロック系のドラムのリズムや、本格的な生バンドの歪んだギターの音が心地よく響いてくる。
会話を邪魔しないくらいの、耳に優しい絶妙な音量。けれど生演奏ならではの小気味いい空気の震えはしっかりと届いていて、わたしたちはテーブルに身を寄せ合い、どこか懐かしいお馴染みのソースの味をみんなでつつきながら、夜市のライブ感そのものを贅沢に楽しむのだった。

――と、そこまではお祭りの情緒に浸れていて、とても平和だったのだけれど。
「あの……大丈夫ですか、先生? なんだかさっき買い出しに行く前より、一段と目がトロンとされているような……」
テーブルの上にいつの間にか新たに増えている、3本のビールの空き瓶を見つめながら、わたしが恐る恐る声をかける。

「ほえ? 先生じゃなくて、アイちゃんって呼んでくれなきゃやだ」
「ほえ? あ、アイちゃん……?」
予想外の方向に甘えたベクトルが飛んできて、わたしは割り箸を持ったまま完全にフリーズしてしまった。

「あー……そっか、ねーあは初めてなんだね。
アイちゃん先生、酔っ払うとめんど――じゃなくて、こうなるんだよ」
リョウリちゃんがちょっと遠い目をして、慣れた様子で焼きそばのキャベツを口に運ぶ。
未希ちゃんも苦笑いしながら、そっと先生の空き瓶を片付けていた。

「うふふ、失礼な子ですねぇ。私はいつでも、いつもと変わらないのですよぉぉぉ」
えへへと上機嫌に笑う先生を見ていると、普段の知的でクールな面影は、巴波川のせせらぎの向こうへ綺麗に流されてしまったんじゃないかと本気で心配になってくる。

◆ ◆ ◆

それから、そんな先生の他愛のない絡みに笑わせられつつ、のんびりと箸を動かしているうちに、随分と時間が過ぎていった。
夜が深まるにつれて、巴波川の川面を渡る風が急に冷たさを帯び始め、お祭りの熱気で火照っていたはずの肌をすっと撫でていく。

「……ふぅ。夜になると、やっぱり川沿いは急に冷え込んじゃうね……」
未希ちゃんが寒そうに小さく肩をすくめ、すっかり出来上がっている彩莉栖先生も、ストールを少しきつく巻き直している。

「よしっ、それじゃあ次は、身体の芯から温まる熱々で最高なスープを探してこよう!
未希ちゃん、ねーあ、今度こそアイちゃん先生への極上の防寒お土産を見つけに行くよ!」

リョウリちゃんが元気よく立ち上がると、テーブルに突っ伏しかけていた先生が、重そうにまぶたを持ち上げた。

「えへへ、熱々のスープ、楽しみに待っているのですよぉ……」

ふにゃふにゃと上機嫌に手を振り返す先生は、やっぱりどう見ても出来上がっている。
わたしたちは先生を未希ちゃんに半分任せるような形で、立ち上る温もりを求めて、再び賑やかな混雑の中へと歩き出した。

ステージのほうへと少し歩き出すと、食欲をそそる芳醇な炭火の煙とともに、バンドの重低音が一段と肌に近く響くようになった。
ライトアップされた橋の上に設営されているのは、夜市の一角に店を構える『みちのく炭火処』という看板を掲げた大きな屋台だった。

網の上の牛たんを豪快にひっくり返しているのは、グレーのパーカーを着た若いお兄さん。
その隣には黒いパーカー姿のお兄さんが並んで立っていて、こちらを向いて白い歯をこぼした。
「いらっしゃい! 寒い中ありがとうございます! 炭火、今が一番いい具合に熾きていますよ」

「お姉さんたち、何にします? 結構冷え込んできたから、温かいものでも食べていってください」
使っている単語自体は聞き馴染みのある標準語なのに、声のトーンや言葉の語尾の弾み方に、独特の心地よい東北のイントネーションがふわっと混じっている。
その温かい響きだけで、冷たい風にさらされていた耳の奥がじんわりと和むような気がした。

「僕たち、各地のイベントに出店するたびに、その土地の美味しいラーメンを食べて帰るのが密かな楽しみなんです。栃木市も、どこかおすすめのお店ってありますかね?」
気さくに笑うお兄さんの言葉に、リョウリちゃんがたちまち目を輝かせて身を乗り出した。

「えっ、ラーメン!? それならあっちの通りの、鶏白湯のお店が絶対おすすめだよ!
唇がペタペタするくらい濃密に凝縮されたスープに、歯切れのいいプリパツな麺がこれでもかってくらい綺麗に噛み合うんだから!」
「お、本格的な解説ですね! それは片付けが終わったら絶対に寄らなくちゃいけないな」

料理部部長としての知識をドヤ顔で熱弁するリョウリちゃんに、お兄さんたちも感心したように顔を見合わせて声を弾ませている。
そんな楽しそうなやり取りを、未希ちゃんも萌え袖の奥でクスクスと笑いながら見守っていた。

「よし、それじゃあこちらの芋煮を4つお願いします!」
リョウリちゃんが小銭の入ったお財布を取り出すと、お兄さんは嬉しそうに大きなお鍋へレードルを伸ばした。

「美味しいお店を教えてくれたお礼に、この『山形芋煮』、特別にすっごく熱々のやつにしておきますね!」
「わぁ、ありがとう!……って、もともと全部熱々のやつを売ってるはずでしょーっ!」

「あはは、ばれちゃいました?」
そんな賑やかな掛け合いとともに手渡された器からは、真っ白な湯気が勢いよく立ち上っていて、見ているだけで指先がじんわりと温まりそうだった。

「それと、こっちも特製の極上牛たんです! 職人技で一気に焼き上げました!」
続いて炭火の網から豪快に引き上げられたのは、こうばしい焼き色のついた『仙台極上牛たん串』だった。

「よし、この最高に温かいお土産を持って、急いでみんなのところへ戻ろう!」

リョウリちゃんと二人で器をこぼさないように気をつけながら、すぐ近くのテーブル席へと足早に引き返す。
席では、未希ちゃんがストールにくるまった彩莉栖先生の他愛のないお喋りを、優しく微笑みながらお相手してくれていた。

「みんなお待たせー! 極上のスープと牛たん、熱いうちに持ってきたよ!」
テーブルに器を並べると、ぶわりと濃厚な炭火の香りと醤油の甘い匂いが、夜の川風の中に広がった。

「わぁ……本当に熱々……! すごい、ありがとう二人とも!」
お留守番してくれていた未希ちゃんが嬉しそうに声を弾ませてお箸を伸ばし、ホクホクでとろとろの大きな里芋を、フーフーと息を吹きかけながらハフハフと口へと運んだ。

牛出汁と醤油仕立てのコク深い汁をゴクリと飲み干すと、お腹の中からじんわりと温かさが広がっていく。
芳醇に香るキノコと肉の旨味が溶け出した熱いお汁が、冷えかけていたわたしたちの身体の芯を、汁の甘い余韻とともにほっこりと確実に温めていく。

「んんーっ! 炭火の匂いが最高にそそるねっ!」
続いてリョウリちゃんが、嬉しさを隠しきれない様子で勢いよくザクリと肉厚な牛たんに噛みついた。

コリコリ, ザクザクとした力強い歯ごたえの奥から、モッチモチとした弾力とともにジューシーな旨味が溢れ出し、冷えた川風の中で四人の笑顔が弾ける。

「えへへ、あったかいのですよぉ……」
すっかり上機嫌な彩莉栖先生も、白いお椀を両手で大切そうに抱え、幸せそうに目を細めていた。

湯船の金魚と、終わらない放課後の温度

十九時を回り、うずま公園のお祭りは会社帰りの人々も合流して、文字通りの激混みピークを迎えていた。
テント付きのイートインスペースは完全に人で埋め尽くされ、発電機の無骨な駆動音とともに、ハロゲンランプの強烈な光が夜の川面を黄金色やオレンジ色にギラギラと乱反射させている。

「あら、うずま公園、もうこんなに人が……。
うふふ、私たちはそろそろ、おうちに帰る時間なのですよぉ……」
すっかり上機嫌で、いつの間にか数本の空き瓶までちゃっかり抱えている彩莉栖先生を、わたしと未希ちゃんで両脇からそっと支える。
お腹いっぱいで満足げなリョウリちゃんを引率しながら、わたしたちは大混雑の会場を後にした。

会場からわずか一分ほど路地に入ったところで、川風に身を縮めていた先生が、ピタッと足を止めて嬉しそうに声を弾ませた。
「あっ、見てくださいっ。あそこにあるの、お馴染みの『巴波の湯』さんですよぉ……。
ねぇ、お風呂、入っていきませんかぁ?」

「ちょっとアイちゃん! お酒を飲んだ直後にお風呂に入るのは絶対にダメだってば! 心臓がびっくりしちゃうじゃん!」
リョウリちゃんがすぐさま両手で大きなバツ印を作って、お母さんのように注意する。

「大丈夫ですよぉ、ロビーのソファでお水をたくさん飲んで、酔いがちゃんと醒めるまでゆっくり休んでから入るのぉ……。
明治から続く薪だきのお湯が、冷えた私を呼んでいる気がするのです……。
ねぇ、寧亜ちゃん、未希ちゃん、行きたいよねぇ?」
大人げなくわたしたちの袖をきゅっと引っ張って駄々をこねる先生に、わたしと未希ちゃんは思わず顔を見合わせて苦笑してしまった。

ガラガラと引き戸を開けると、どこか懐かしい番台と木のぬくもりが、温かい空気とともに出迎えてくれる。
大人四百円の入浴料を支払い、五十円の貸しタオルと、小さなシャンプーにボディーソープを受け取って、わたしたちは女湯の暖簾をくぐるのだった。

◆ ◆ ◆

脱衣所でさっと服を脱ぎ捨て、浴場への扉を開ける。

目の前には真っ白な湯気がふわりと霞んでいた。外の寒さを一瞬で忘れさせてくれるような温かな空間の中で、一番に目を引いたのは、レトロなタイル壁の向こうに鮮やかに描かれた、たくさんの金魚たちの姿だった。

赤や更紗の鮮やかな鱗をまとった金魚たちが、まるで壁の中を優雅に泳いでいるかのように、優しく尾鰭を揺らしている。
薪だきならではの、肌にトゲのない柔らかくまろやかなお湯。
わたしたちは彩莉栖先生を真ん中にして、一列に並んでそっと肩まで浸かった。

「ふぅ……生き返るわねぇ……」
お湯の気持ちよさと心地よい疲労感で、彩莉栖先生がふうっと深い息を吐きながら湯船の縁に頭を預ける。
「ほら先生、お水飲んでスッキリしたからって、のぼせておやすみモードになったら本当に溺れちゃうよ!」
リョウリちゃんがパシャパシャとお湯をかけて注意すると、先生は困ったように眉を下げて小さく笑った。

「もう、さっきはちょっとお恥ずかしいところを見せてしまったわね。みんなに『アイちゃん』だなんて無理を言って絡んでしまうなんて……」

「あはは! でもあれはあれで、すっごく楽しかったよ! 今日の芋煮も牛たんも最高だったし、あの少し冷めかけの焼きそばをみんなでつついたのも、お祭りって感じで私は好きだな」
リョウリちゃんは気持ち良さそうに両腕を伸ばし、湯船のまろやかなお湯をぱしゃりと揺らした。

彩莉栖先生は少し耳を赤くしながら、優しく目を細める。
「ふふ、確かに、みんなで食べるソースの味は格別だったわね」

隣の未希ちゃんが、浴場の壁に設えられた大きな水槽へと、そっと指先を近づける。
湯気の中に浮かび上がるガラスのすぐ向こうで、優雅に尾鰭を揺らす本物の金魚の姿を、愛おしそうに指先でそっと触れた。
「……ガラスの向こうを泳ぐ金魚、すごく綺麗ね。
まるでお湯の波と一緒に、ゆらゆらと踊っているみたい。ね、寧亜ちゃん」

「うん、本当に綺麗……。なんだかこうしてみんなで金魚を眺めていると、身体だけじゃなくて、心までじわりとあったかくなってくるね」

わたしは楽しそうなみんなのやり取りと、巴波川のせせらぎに似た心地よいお湯の音を聴きながら、冷え切っていた身体の芯が、じわりと、完全に解けていくのをただ心地よく感じていた。

エピローグ 湯上がりの風と、ガラスの乾杯

湯上がりの脱衣所には、大きな扇風機が回るかすかな音と、ほのかに甘い石鹸の香りが満ちていた。
お風呂から上がったばかりの火照った肌に、開け放たれた窓から流れ込む夜風が優しく触れて、最高に心地いい。

「ふふ、お風呂上がりのお楽しみといえば、やっぱりこれかしら」
すっかり湯冷ましを終えた彩莉栖先生が、腰に手を当てて、ガラス瓶のフルーツ牛乳を嬉しそうに掲げた。

「あ、ずるい! アイちゃん先生だけもう開けてる!
寧亜ちゃん、未希ちゃん、私たちも早く乾杯しよ!」
リョウリちゃんが自分の瓶の紙蓋をプラスチックの爪で器用に剥がしながら、急かすように声を弾ませる。

カチン、と冷たいガラス瓶同士が小さく音を立てて重なった。
ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干す、濃厚で甘酸っぱいフルーツ牛乳は、火照った身体の隅々にまでじわりと染み渡っていく。

「ふはぁ……生き返る……。やっぱりお祭りの本当の締め括りは、この味だね」
わたしが口元を指先で少し拭いながら呟くと、隣で静かに瓶を傾けていた未希ちゃんが、小さく微笑んで頷いた。

「うん。……なんだか、特別な放課後になったね、寧亜ちゃん」

遠くのほうから、うずま公園の祭りの喧騒が、川風に乗って微かに、優しく響いてくる。
わたしたちは他愛のないおしゃべりをいつまでも続けながら、しっとりと更けていく蔵の街の夜を、愛おしむように楽しむのだった。

第23話・後編『始まりの地 —夜風に弾ける乾杯の音—』(完)

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