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『蔵の街のグラビティ』第22話『春の不協和音、あるいは放課後の迷い子』

四月の栃木市は、街全体が淡いピンク色の吐息をついているようだった。
巴波川(うずまがわ)の縁を飾る桜並木が風に揺れるたび、水面には無数の花びらが春の記憶をなぞるように重なり、季節の厚みを教えてくれる。
星霜高校の校舎もまた、新一年生たちが持ち込んだ不慣れで鋭い期待の音に包まれ、いつもより少しだけ騒がしい旋律(しらべ)を奏でていた。

「……ねえ、寧亜ちゃん。……もう、すっかり春ね」
放課後の廊下、窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、未希ちゃんが隣で小さく呟いた。
彼女の奏でる音は、冬の間の張り詰めた緊張が解(ほぐ)れ、温かな陽だまりのように穏やかで心地よい低音を響かせている。
理羅さんの卒業式からひと月近くが過ぎ、最高学年の三年生という立場になったわたしたちにとって、新学期からの数週間は、嵐の後の静寂のような平穏な日々だった。

「ええ。……最上級生としての空気も、ようやく馴染んできた感じがするわね」
わたしは未希ちゃんの歩幅に合わせ、ゆっくりと階段を下りていく。
階段の踊り場で揺れるカーテンの隙間から、遠くに太平山(おおひらさん)の山肌が薄紅色の雲を纏っているのが見えた。
今日はこれから、あの山へと向かう。
二人きりで、春の重力を確かめるために。
そんな当たり前で特別な約束が、今のわたしの胸を優しく、強く満たしてくれていた。

昇降口が見えてくる。
靴を履き替え、一歩外へ出れば、そこには桜のトンネルへと続く道が待っているはずだった。
……あの、耳を劈(つんざ)くような高周波の「音」が、背後から襲いかかってくるまでは。

昇降口の急襲

「ねーあーせーんぱぁ〜いッ!!」

放課後の穏やかな空気の中に、銀の鈴を激しく振り鳴らしたような、高純度な不協和音が突き刺さった。
振り返る暇さえなかった。
タッタッタッ、という軽快な足音が背後から迫ったかと思うと、わたしの左腕に、強烈な重力がのしかかる。
「見ーつけたっ!
もう、せんぱい、探したんですよぉ!」
「え……っ!?」
わたしの腕を羽交い締めにし、ぶら下がるようにしてしがみついてきたのは、跳ねたボブカットが元気よく揺れる、小柄な少女だった。

「……っ、ちょっと。……あなた、誰」
真っ先に反応したのは、未希ちゃんだった。
穏やかだった彼女の旋律(しらべ)は一瞬でピリついた警告音へと変わり、わたしの袖に触れようとしていた彼女の手が、空中で硬直するのがわかった。
けれど、しがみついた少女は、未希ちゃんの威圧感など気にも留めない様子で、わたしの腕にぐりぐりと頬を寄せている。
一、二サイズは大きいであろうぶかぶかのブレザーから、指先だけをちょこんと出した「萌え袖」が、わたしの腕を強く、逃がさないように掴んでいた。

「あなた……あの時の?」
至近距離で見つめてくる琥珀色の瞳を覗き込み、わたしは記憶の底にある「音」を拾い上げる。
「はいっ! 覚えててくれたんですね、嬉しい!
一年一組、白鷺 陽葵(しらさぎ ひまり)ですっ!
せんぱいと同じ制服を着るために、わたし、死ぬ気で頑張ったんですからね!……フンス!」
鼻息荒く宣言した彼女の瞳が、春の陽光を受けて金色の火花を散らす。
まだ風の冷たかった二月の入試の日、絶望的な方向音痴で泣きべそをかいていた、あの迷子の女の子だ。

「そう、合格したのね。……陽葵ちゃん、入学おめでとう」
わたしが戸惑いながらも祝福を伝えると、陽葵ちゃんはさらに力を込めてわたしの腕を抱きしめた。
「えへへ、ありがとうございますぅ!
これでようやく、寧亜せんぱいの隣は、わたしだけの特等席になりましたっ!……フフン!」
誇らしげに胸を張る陽葵ちゃんの宣言が、昇降口に響き渡る。
その瞬間、わたしの右隣から、明らかに沸点を超えた「音」が聴こえてきた。

「……な、なにを、言ってるの。……そこは、わたしの」
見れば、未希ちゃんがこれまで見たこともないほど、頬を「ぷくーっ」と膨らませて立ち尽くしていた。
リスが冬支度のために木の実を溜め込みすぎたような、あまりに露骨で、激しい抗議の表情。
「……寧亜ちゃん。……この子、邪魔。……すごく、邪魔」
三年生の最高学年としてのプライドが、年甲斐もない「ぷく顔」と低い唸り声に書き換えられていく。
そんな未希ちゃんを、陽葵ちゃんは琥珀色の瞳を三日月のように細めて見上げた。

「……そっちにいる暗そうな『先輩』、邪魔ならどいてください。フフン!」
これ以上ないほど完璧な、勝ち誇った「ドヤ顔」。
その無慈悲な音(吐息)は、未希ちゃんの堪忍袋の緒を跡形もなく吹き飛ばすのに十分な破壊力を持っていた。
春の穏やかな放課後は、三年生と一年生が火花を散らす、予測不能な不協和音(バトル)へと変貌していった。

桜のトンネル

結局、押し問答の末に陽葵ちゃんを振り切ることはできず、わたしの左右を二人に挟まれる形で、太平山へと向かうタクシーに乗り込むことになった。
車内の後部座席という密室の中で、彼女は当然のような顔でわたしの右腕をキープしている。
「フフン♪ 寧亜せんぱいの隣、やっぱり最高に落ち着きます。……あっ、せんぱい、今ちょっと窓の外を見た横顔、最高に尊いです! カシャッ」
陽葵ちゃんはぶかぶかの萌え袖から覗かせた手で、器用にスマートフォンを構え、至近距離からわたしを観測し続けている。
目的地のことも、移動中であるという状況も、彼女にとっては二の次でしかないようだった。

「……ねえ、寧亜ちゃん。……あの、新入生」
陽葵ちゃんの反対側――すなわち、わたしの左隣から、未希ちゃんが地を這うような低い音(声)を響かせた。
昇降口での幕間に最低限の自己紹介は済ませたものの、未希ちゃんの警戒心は一ミリも薄れていない。
「さっきから静かに聴いていれば、勝手にバシャバシャ撮るなんて無作法が過ぎるんじゃない?……白鷺さん」

「ひゃっ、暗い先輩が凄んできました! 寧亜せんぱい、助けてくださいっ!」
陽葵ちゃんはわざとらしくわたしの右腕にぎゅっと抱きつき、上目遣いで琥珀色の瞳を潤ませてみせる。
けれど、次の瞬間には未希ちゃんの方をスッと一瞥し、その小さな唇を美しいドヤ顔の形へと歪めた。
「白鷺じゃなくて、陽葵です。それに未希先輩、そこ、画角の邪魔なんですけど。……フフン!」

「……っ!?」
わたしに向ける甘い響きとは明らかに違う、一線を引いた冷ややかな呼称と、容赦のない先制攻撃。
未希ちゃんはぐっと言葉を詰まらせると、あからさまに不満げに頬を膨らませ、ぷいっと窓の外を向いてしまった。

「あ……、二人とも、窓の外を見て。……凄く綺麗だよ」
車内の張り詰めた重力をどうにか調律しようと、わたしは慌てて流れる景色を指差した。
タクシーはちょうど、太平山の麓から山頂へと続く遊覧道路に入ったところだった。
視界のすべてを埋め尽くすように、満開の桜が折り重なり、見事な桜のトンネルを形作っている。
窓から差し込む淡いピンク色の木漏れ日が、険悪な空気の座席を優しく塗り替えていく。
「わあ……っ」

それまで激しく火花を散らしていた陽葵ちゃんと未希ちゃんが、同時に小さく息を呑んだ。
舞い散る花びらが、タクシーのフロントガラスをかすめていく。
この新しい春の嵐は、どこか美しい旋律の予感を含みながら、わたしたちを太平山の山頂――謙信平へと運んでいくようだった。

謙信平の不協和音

桜のトンネルを文字通り駆け抜けたタクシーは、太平山の山頂にある謙信平の駐車場へと滑り込んだ。
車外へ一歩を踏み出した瞬間、わたしの視界は言葉を失うほどの圧倒的な色彩に埋め尽くされた。
「……わあ、凄い……っ」
思わず足を止め、深く息を呑む。

山頂一帯を包み込むように咲き誇る満開の桜が、春の柔らかな風に揺れて見事な淡いピンク色の海を作っていた。
遊歩道には色とりどりの提灯が並び、多くの花見客で賑わう『太平山桜まつり』の活気ある旋律が、心地よいざわめきとなって響いてくる。
眼下を見下ろせば、「陸の松島」とも称される広大な関東平野がどこまでも広がり、遠くの街並みが春の霞の中に美しく溶け込んでいた。
車内で火花を散らしていた未希ちゃんと陽葵ちゃんも、この時ばかりは並んで空を見上げ、その瞳に無数の花びらを映して静かに佇んでいた。

けれど、絶景の余韻に浸る時間を、春の嵐は許してくれない。
風に乗って運ばれてきた、どこか香ばしい醤油だれの薫りと、お出汁の甘い香りが鼻腔をくすぐった瞬間、二人の意識は一気に現実へと引き戻された。
「さあ、寧亜せんぱい! 絶景の次は、お祭りと言えばの三大名物ですよっ!
わたし、寧亜せんぱいとこれを食べるのをずーっと夢見てたんですから!
はい、あそこの茶屋のベンチに座りましょう!」
陽葵ちゃんはわたしの左腕をがっちり抱え込んだまま、ぐいぐいと目当ての店へと引っ張っていく。
「ちょっと、引っ張ったら危ないでしょ……」
未希ちゃんがその背中に冷ややかな視線を突き刺しながら、一歩も遅れまいとわたしの右側にぴたりと並んだ。

案内された緋毛氈のベンチに腰を下ろすと、お目当ての品々がテーブルへと運ばれてきた。
それは、見ているだけでお腹が鳴りそうなほどに豊かな、栃木の歴史が育んだ美味の旋律だった。
もともとこれらは、五穀豊穣を願って太平山神社に奉納された米や鶏、そして鶏が産んだ卵が始まりなのだという。
神様への感謝を込めて捧げられたお下がりが、今ではこうして太平山を訪れる人々を笑顔にする、おいしい三大名物として知られている。
その素朴で温かい伝統の品々は、けれど、テーブルを挟んだ二人の視線が交差した瞬間、一瞬で領土戦の兵器へと書き換えられてしまった。

「まずはこのおだんごからどうぞ、寧亜せんぱい!
はい、あーんしてくださいっ!」
陽葵ちゃんが、ぶかぶかの萌え袖から小さく出した指先で、爪楊枝の刺さった大きなだんごをわたしの口元へ突き出す。
一般的な甘いタレではなく、お皿の上の白いだんごを埋め尽くすようにたっぷりと盛られた、艶やかなこしあんが定番なのだという。
陽葵ちゃんはもう片方の手で素早くスマートフォンを構え、至近距離からカシャカシャと連写音を響かせた。
「白鷺さん、寧亜ちゃんが困っているじゃない。
寧亜ちゃん、だんごの前にまずはこの温かい卵焼きだよ。
ほら、添えられている大根おろしをこうして乗せて食べると、お出汁の甘みがさっぱりして凄く美味しいんだから」
未希ちゃんが割り込むように箸を動かし、黄金色に焼き上げられた大ぶりの卵焼きに大根おろしをたっぷりと乗せ、陽葵ちゃんの爪楊枝を遮るように差し出してきた。

「未希先輩、寧亜せんぱいは今、もっちりしたおだんごと滑らかなこしあんの甘さを求めているんです!
卵焼きは後回しにしてください!
ほら、せんぱい、あーんです!」
「……っ、後輩のくせに、さっきから生意気……。
寧亜ちゃんは焼き鳥だって大好きなんだからね」
未希ちゃんはぐっと言葉を詰まらせると、あからさまに不満げに頬を膨らませ、今度は焼き鳥の皿を自分の手元に引き寄せて抱え込んでしまった。
一串に大ぶりな肉が三個、贅沢に突き刺さった見事な焼き鳥。
炭火で炙られた甘辛い醤油だれの香ばしいかおりが、辺りの空気を支配していく。
未希ちゃんは「絶対に渡さない」と言わんばかりに皿を守りながら、添えられている七味をパッパと振りかけ、ピリッとした赤い辛味をきかせてわたしに見せつけてきた。
完全に拗ねてしまった時の、いつもの可愛い抗議のポーズ。
けれど、陽葵ちゃんはその空気圧を物ともせず、琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせてフフンと勝ち誇ったように笑っている。

「あ、あの……二人とも、名物はみんなで分けて食べよう?
ほら、桜も、遠くの景色も、本当に綺麗だし……」
板挟みになったわたしは、どうにかこの不協和音を調律しようと、未希ちゃんの手元からそっと卵焼きを一切れもらい、口に運んだ。
じゅわりと広がる優しいお出汁の甘みと、大根おろしのさっぱりとした清涼感は最高なのに、目の前で火花を散らす二人のおかげで、喉を通る温度はどこか熱い。
眼下に広がる栃木の街や、山を染める満開の桜まつりはこんなに穏やかで美しいのに、わたしたちのテーブルの上だけは、新学期一番の激しい嵐が吹き荒れていた。

残照の不協和音

謙信平を包んでいた鮮やかな薄桃色の世界は、時間が経つにつれてゆっくりと、深い藍色の重力に飲み込まれていった。
お祭りの提灯にぽつぽつと橙色の灯りが灯り始める中、楽しい時間は終わりを告げようとしている。

「嫌ですぅ! まだ帰りたくないですぅ! 寧亜せんぱいと、もっともっと春の思い出を作るんです!」
茶屋のベンチから頑なに立ち上がろうとしない陽葵ちゃんは、わたしの左腕をぎゅっと抱きしめたまま全力で粘っていた。
「もう、陽葵ちゃん、我儘言わないの」
わたしが困り顔で宥めるけれど、陽葵ちゃんは不満げに唇を尖らせるばかりだった。
このまま押し問答を続けていては、本当に最終バスに置いていかれてしまう。
わたしはなおも渋る陽葵ちゃんの手を引くように促し、三人であじさい坂の長い石段へと足を向けた。
まだ紫陽花の蕾も固い、夕闇に包まれた長い階段を、わたしたちは気まずい沈黙を連れて、足早に下りていった。

山を下りきり、どうにか滑り込んだバス停に、タイミングよくヘッドライトの光を明々と灯した最終バスが滑り込んできた。
プシューという排気音と共にドアが開き、乗り込んだ車内は、乗客もまばらでひっそりとしている。
けれど、座席に腰を下ろそうとした瞬間、通路の奥で再びピリピリとした領土戦の火花が散った。
「陽葵ちゃん、今日一日でたくさん歩いて、とっても足が疲れやすいんですぅ。
だから、寧亜せんぱいの隣はわたしの……」
陽葵ちゃんが当然のようにわたしの隣の席へ滑り込もうとした瞬間、その行く手を物理的に遮る強固な壁が現れた。
未希ちゃんだ。
未希ちゃんは無言のまま、けれど身体中からものすごい威圧感を放ちながら、頬を限界まで膨らませて通路を通せんぼしていた。
「……ここは、私の指定席」
普段の穏やかな旋律からは想像もつかないほど、低く、ボソリとした呟き。
その有無を言わせない強い拒絶の重力に、さっきまで無敵だった陽葵ちゃんも一瞬だけ動きを止めた。

結局、わたしを中央に挟む形で座席が固定され、バスは夜の栃木市内へと走り出した。
ガタゴトと規則正しく揺れる車内の旋律に耳を澄ませていると、窓の外には夕闇と夜が混ざり合う、息を呑むような深い青の空が広がっていた。
山肌をなぞるように下る遊覧道路沿り、鮮やかにライトアップされた薄桃色の桜のトンネルが、背後へとドラマチックに流れていく。
車窓を透かして差し込む青とピンクの幻想的な光と影が、車内の薄闇の中で、わたしたち三人の影を交互に長く、短く伸び縮みさせていた。

昼間の嵐のような賑やかさが嘘のように静まり返った空間で、右隣の陽葵ちゃんは、わたしの腕にしっかりと抱きついたままスースーと規則正しい寝息を立て始めていた。
完全に寝たふりなのは、その指先が離れまいと微かに力を込めていることで筒抜けだったけれど、わたしは苦笑するしかなかった。

すると、左隣から衣服の擦れる音が聴こえ、トン、と左肩に心地よい重みが預けられる。
見れば、未希ちゃんが反対側からわたしの肩に頭を預け、薄闇の中で勝ち誇ったような、完璧なドヤ顔を浮かべていた。
陽葵ちゃんには見えない位置での、静かで、確かな勝利宣言。
その少し熱を帯びた未希ちゃんの旋律が嬉しくて、わたしはそっと肩の力を抜いて、彼女の重みを受け入れた。

バスが栃木駅前に到着すると、街灯の白い光がロータリーを寒々と照らし出していた。
ここで陽葵ちゃんとは別ルートになるため、寝たふりを切り上げた彼女を見送るためにバスを降りる。
「うぅ、寧亜せんぱい、離れたくないです……。
でも、今日は負けましたけど、明日の放課後はもっと早く先輩を捕まえますからね!
未希先輩にも、絶対に負けませんから!」
改札口へ向かう直前、陽葵ちゃんはくるりと振り返り、ぶかぶかの萌え袖の拳を握りしめて力強く宣言した。
琥珀色の瞳には、まだ消えない情熱の火花がパチパチと弾けている。
嵐のような余韻を残したまま、小さな背中が駅の雑踏の中へと消えていくのを、わたしと未希ちゃんは並んで見送った。

陽葵ちゃんの姿が見えなくなり、ようやく二人きりになった帰り道。
巴波川沿いの古い蔵並みが続く夜道は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、冷たい夜風が川面を優しく揺らしていた。
街灯の下を並んで歩く中、未希ちゃんはまだ少し不満げに、小さな歩幅で地面を踏みしめている。
「……明日から、お団子を食べる暇もなさそうね」
ぽつりと、未希ちゃんが夜の空気に溶かすように呟いた。
その短い音の中に混じっている、あからさまな寂しさと、大切な特等席を脅かされることへの微かな焦燥の旋律が、わたしたちの間にダイレクトに届く。
新入生の乱入によって乱されてしまった、彼女の繊細な旋律。

わたしは小さく微笑むと、歩調を緩めて未希ちゃんの隣へと一歩寄り添った。
「大丈夫だよ、未希ちゃん。
どれだけ賑やかになっても、わたしたちの間に流れる一番心地よい低音は、ずっと変わらないから」
言葉と共に、わたしはそっと彼女の手を握りしめた。
伝わる体温が、彼女の頑なだった重力をゆっくりと解きほぐしていくのがわかる。
「……うん。……なら、いいんだけど」
未希ちゃんは少しだけ照れくさそうに、けれど今度は嬉しそうに頬を緩め、握り返す手にぎゅっと力を込めてきた。
新学期の始まりを告げる不協和音は、夜の蔵の街の静寂の中で、二人だけの愛おしい調和へと優しく調律されていった。

湯船の残響

「ふぅー……。やっぱり、この時間のお風呂は最高なんだよぉ」
夕暮れ時の柔らかな光が窓から差し込む浴室で、私は湯船に肩までどっぷりと浸かり、幸せなため息を白く濁る湯気に溶かした。
優しく身体を包み込んでくれるお湯のぬくもりに、今日一日の疲れがじんわりと融けていくみたい。

パチャパチャとお湯を揺らしながら、脱衣所に置いてきた骨董店の時計の音を思い浮かべる。
放課後、どこかへ買い出しにでも出かけたのか、ねーあと未希ちゃんはまだ戻ってきていなかった。
「ちょっと遅いなぁ。巴波川の土手で、また二人で仲良く寄り道でもしてるのかな?」
二人があんなことになってるなんて露知らず、私はのんきにそんなことを考えていた。

寄り道と言えば、と思い出すのは、放課後の早い時間に家庭科室で遭遇した、あの嵐のような女の子のことだ。
それは私が料理部の部室を兼ねた家庭科室で、新入生歓迎会に向けた新しいおやつの試作を終えた時のことだった。
とぼとぼと、ローファーの裏を引きずるようなおぼつかない足音が廊下から響いてきたかと思うと、家庭科室の引き戸がガラガラと力なく開いた。

「あぅ……。寧亜せんぱいは、どこですか……。
ひまり、せんぱいの匂いを辿ってきたはずなのに、ここは一体どこですか……」
琥珀色の瞳を涙目でぐるぐるさせながら、完全に方向音痴を発揮して迷子になっていたらしい彼女は、そのまま床にへなへなと崩れ落ちそうになっていた。
教室の静寂を破るように、彼女の小さなお腹から「きゅぅぅぅー……」と、もの凄く切ない音が響き渡る。

「あわわ、倒れちゃダメだよっ!」
私は慌てて駆け寄ると、ちょうど自分用のおやつに握ったばかりの、ほかほかのおにぎりを彼女の目の前に差し出した。
惣社町にある万石屋さんで買った『とちぎの星』をふっくら炊き上げた、ちょっと大きめのおにぎり。
大嘗祭の献上米にも選ばれた栃木自慢の品種で、大粒だからおにぎりにすると、冷めても甘みがしっかり残って最高に美味しいんだよね。
その中に、自家製の甘辛いおかかをたっぷり詰め込んでおいたの。


「うぅ……、いい匂いがします……。いただきますっ!」
陽葵ちゃんは小さな口を大きく開けると、おにぎりに思い切りかぶりついた。
もぐもぐ、と一生懸命に頬張るたびに、彼女の琥珀色の瞳がみるみるうちに輝きを取り戻していく。
「……っ!? なんて美味しいんですか……っ! お米の一粒一粒が立っていて、おかかの旨味と絶妙に調和していますっ!」

「ふふ、元気が出たみたいでよかったぁ。
私は三年生の料理涼。探してるそのねーあとはね、巴波川沿いにある骨董店で一緒に暮らしているんだよ。……ねえ、さっきねーあを探してるって言ってたよね?」
空っぽになった皿を見つめて満足そうに息をつく彼女に、いわゆる『同居事実』を苦笑交じりに明かすと、彼女は琥珀色の瞳をきらりと輝かせて身を乗り出してきた。

「ええっ!? いっ、一緒に暮らしてるんですかぅ!? ず、ずるいですぅ! ひまりだって寧亜せんぱいと毎日一緒に過ごしたいですぅ!」
琥珀色の瞳をこれ以上ないほど大きく見開いて、陽葵ちゃんは激しいジェラシーの炎をパチパチと燃え上がらせた。

「……はっ! なるほど、そういうことですか!
リョウちゃんの服から、大好きな寧亜せんぱいと同じ匂いが微かにしたんですね!
一緒に住んでいるからお揃いの匂いになっちゃってるんだ……うぐぐ、羨ましすぎますぅ! ひまりもその骨董店に今すぐ引っ越します!」

「あはは、引っ越しはダメだよぉ」


ものすごい勢いで迫ってくる新入生に圧倒されながらも、わたしは両手を振って宥める。
陽葵ちゃんはひとしきり悔しそうに頬を限界まで膨らませていたけれど、やがてフンスと鼻を鳴らして、ぶかぶかの萌え袖を整えながら小さく名乗った。
「あ、申し遅れました。わたしは新入生の白鷺陽葵です!
それにしてもさっきのおにぎり、本当に命の恩人レベルの美味しさでした……。
ひまり、決めました! リョウちゃんの作るものは、寧亜せんぱいの次に好きです!
明日からも、ここに来ればこれを作ってくれますよね?」

命を救ってもらったお礼を言いつつも、なぜか最初からもの凄く態度がデカい。
出会ったその日に、ちゃっかり「リョウちゃん」呼びと、公認のつまみ食い担当の座を勝ち取っていった彼女の図太さに、私はただ苦笑するしかなかった。

「ふふっ、あの子、今頃どうしてるかなぁ。
ちゃんと無事に帰れてたらいいんだけど」


湯船からざばぁとお湯を溢れさせながら立ち上がり、わたしは天井を見上げて微笑んだ。
まさかその女の子が、今まさに太平山の謙信平で、自分が大好きな『三大名物』を巡って未希ちゃんと激しいバトルを繰り広げているなんて、この時のわたしは知る由もなかった。

第22話『春の不協和音、あるいは放課後の迷い子』(完)

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