つい数日前までの、季節をまとめて踏み越えてしまったかのような真夏日が、嘘のようだった。
五月の栃木市を包み込んだのは、初夏の瑞々しさではなく、北の山から滑り込んできたかのような、思いのほか尖った冷たい夜風。
日中の日差しに甘えて薄着で出かけてしまった人たちが、慌てて肩をすくめるような、そんな気候の悪戯が街の温度を急速に塗り替えていく夕暮れ時だった。

巴波川の水面は、傾いた陽の光を鋭く撥ね返しながら、濃い藍色へとその色を溶かし始めている。
川沿いにひっそりと佇む骨董店GRAVITYの窓の向こうからは、いつもと変わらない静けさと、けれどどこかそわそわとした、新しい放課後の気配が微かに漏れ聞こえていた。
夕暮れの重力、放課後の「時間」が色づく瞬間
セピア色に褪せた古い絵葉書を、一枚ずつ指先でなぞりながら仕分けしていく。
放課後の骨董店GRAVITYの店内には、巴波川の水面を滑り込んできた夕暮れの藍色が静かに満ち始めていた。
昼間の日差しが嘘のように引いていく時間、古い木製の床が時折小さくきしむ音だけが響く静寂。わたしはその穏やかな空気を好ましく思いながら、手元にある大正時代の栃木市の風景に意識を傾けていた。
けれど、その心地よい重力は、勢いよく開け放たれた扉からの突風のような気配によって、一瞬にして鮮やかに塗り替えられることになる。
「もう、本当に信じられないくらい良い匂いだったんだよっ!
十六時スタートだからって、放課後のチャイムが鳴ってすぐに全速力で猛ダッシュで見に行ったのに!
なのに、お肉の大きな塊がぐるぐる回ってるだけで、まだ焼けてないからダメって言われちゃうなんて……!
あの生殺し、絶対に夜にリベンジしなきゃ、わたしのお腹が怒って暴れちゃうんだから!」
作業台のすぐ目の前で、リョウリちゃんが両手を大きくぶんぶんと振り回しながら、もの凄いパッションで熱弁を振るい始めた。
身振りを交えてケバブの回転を必死に表現する彼女の額には、うっすらと汗の粒が浮かんでいる。
お祭り初日の金曜日。蔵の街とちぎビール祭りがスタートするのは、事前の告知通り今日の十六時からのはずだった。
(十六時開始だからって、ぴったりにお肉が焼き上がっているとは限らないのは、お祭りのバタバタした準備あるあるだとは思うのだけれど……)
そんな当然のツッコミは彼女の猛烈な食欲と熱気に完全にかき消されてしまい、わたしは苦笑しながら、古い紙の匂いが残る葉書をそっと机に置き、大きく息を弾ませている彼女の顔を見上げた。
「リョウリちゃん、開始時間ぴったりに見に行った段階では、まだお肉を焼く準備ができていなかったってこと?」

「そうなのねーあ!
うずま公園のとちぎビール祭り、もうすっごいいい匂いがそこら中に漂ってるんだよっ!
炭火とお肉の香りがぶわぁってして、お腹ペコペコなのを完全に限界突破してきちゃったの。お願い、一緒に行こう?」
リョウリちゃんは机にこれでもかと身を乗り出し、潤んだ琥珀色の瞳で切実に訴えかけてくる。
その必死な様子にわたしが圧倒されていると、少し離れた古いソファで静かに文庫本をめくっていた未希ちゃんが、おっとりとした、けれどどこか楽しげな声のトーンで言葉を添えた。
「……リョウちゃん、放課後の短い時間に、わざわざうずま公園まで走っていったのね。
制服にスパイスの匂いが染みつく前に戻ってこられて、本当によかったね」
未希ちゃんはふわりと長いピンクブロンドの髪を揺らし、袖口から少しだけ覗かせた指先で本のページを優しく押さえる。
「未希ちゃんまでそんなのんびりしたことを言うなんて!
でも、もうすっかり準備が整ってる時間なんだよ! さあ二人とも、今すぐ巴波川沿いに緊急出動だよっ!」

「ちょっと待って、リョウリちゃん。気持ちはすごくよく分かるんだけど……理羅さんにお留守番を頼まれてるんだから、お店を空けてみんなで出かけるわけにはいかないよ?」
「えーっ、そんなぁ!
目の前のうずま公園でお肉がぐるぐる回って待ってるのに、お留守番なんてやっぱり生殺しだよーっ!」
大袈裟にのけ反ってから、がっくりと作業台に突っ伏したリョウリちゃんが、世にも絶望的な声をあげる。
琥珀色の瞳をこれでもかと潤ませて、まるで捨てられた子犬のようにこちらを見上げてくる。
そんな彼女の分かりやすすぎる様子に、わたしが困ったように苦笑した、その時だった。
店舗の奥、二階の居住スペースへと繋がるバックヤードの扉が、すっと滑らかに開いた。
「ただいま。一階がずいぶんと賑やかだと思ったら、みんな揃っていたのね。
そんなに大声をあげて、一体何を話し込んでいるの?」
住居側の玄関から帰ってきたばかりなのだろう。通勤用の鞄をまだ手に持ったままの彩莉栖先生が、おっとりとした微笑みを浮かべて姿を現した。
リョウリちゃんが突っ伏していた机から勢いよく顔を上げ、「先生、聞いてよ!」とうずま公園のビール祭りのこと、そしてお店を空けられない現状を身振り手振りで熱弁し始める。
先生はそれを穏やかな微笑みを浮かべながら聞いていたけれど、国内外のビールが集まるという言葉に、その瞳の奥がわずかに悪戯っぽくきらめいた。
「なるほど、そういうことね。国内外の美味しそうなビールがたくさん集まるのでしょう? ちょうど私も、少し頭を冷やしたかったところなの。
ねえ、私が金森さんに掛け合ってあげるから――私もご一緒していいかしら?」
「もちろん! ぜひ一緒に行こうよ!」
リョウリちゃんの弾んだ返事に先生は嬉しそうに頷くと、おっとりとスマートフォンを取り出して耳元に当てた。
少しの間、楽しげに金森さんと話していた先生は、やがて通話を終えると端末をポケットに収めて微笑んだ。
「はい、許可をもらったわよ。今日はお祭りでどうせ誰も来ないだろうから、早めに閉めてみんなで遊びに行ってきなさいって」
「やったぁ! さすがアイちゃん先生、話がわかる大人って最高だよっ!」
「ふふ、それじゃあ、私はちょっと部屋に戻って荷物を置いて、着替えてくるから、みんなここで待っていてね。
五月の夜風は思いのほか冷たいようだし、少し暖かい格好をしてこなくちゃ」
先生が楽しげな足取りで二階へ上がろうとすると、それまで一人だけ制服のままだったリョウリちゃんが、はっと自分のブレザーを見下ろした。
「あ、じゃあ私も超特急で着替えてくる!
みんな私服なのに、私だけ制服でお肉に突撃するのはちょっと悔しいもん! 一分で戻ってくるから待っててね!」
リョウリちゃんは先生の後を追うようにして、バックヤードの扉の向こうへとドタバタと小走りで駆け上がっていった。
残された薄暗い店内には、再び静かな時間が戻ってくる。
学校から帰ってすぐに、白のサマーニットと黒のプリーツミニという、自分の一番落ち着くシンプルな私服に着替えていたわたしは、カウンターの椅子に深く腰掛け直した。
「リョウリちゃん、一分で戻ってくるって言ってたけど……絶対に悩んで時間かかるよね」
わたしが苦笑交じりに呟くと、対面のソファに座っていた未希ちゃんが、ふふ、と喉の奥で愛らしく鈴を鳴らした。
「そう、ね。リョウちゃん、食べるお肉のことは迷わないのに、お洋服を選ぶときはいつも鏡の前でぐるぐるしているものね」
未希ちゃんは、お気に入りのパステルピンクベージュのふわふわしたシャギーニットの、すっかり手を覆うほど長い萌え袖をそっと手の甲に手繰り寄せながら、楽しそうに微笑んだ。
その足元でふわりと流れる純白のチュールスカートが、夕暮れの窓光を浴びて優しく揺れている。
いつも学校で見せる凛とした制服姿も素敵だけれど、こうして家の中でリラックスしている彼女たちの私服姿を見ていると、放課後のプライベートな時間がより特別で、愛おしいものに感じられた。
やがて、奥の扉が再び静かに開いた。
「お待たせ。お祭りなのに、いつまでも学校の先生みたいな格好じゃ味気ないものね」
戻ってきた彩莉栖先生の姿に、未希ちゃんと一緒に思わず小さく息を呑んだ。
いつも学校で見せるお堅いスーツスタイルとは打って変わり、今の先生は、ふわりと流れるミントグリーンのロングワンピースに、デニムジャケットを軽やかに羽織った、ナチュラルで可愛らしい大人のアウトドアスタイルだった。
髪型も少しだけラフに崩したのか、いつもよりおっとりとした雰囲気が際立っていて、なんだか綺麗なお姉さんと放課後に待ち合わせをしているような、不思議なドキドキ感が胸に広がった。
「お待たせーっ! 宣言通り、超マッハで着替えてきたんだよっ!」

先生の背後から、元気いっぱいの声と共にリョウリちゃんが飛び出してきた。
アイボリーのワッフルニットに、鮮やかな赤のタータンチェックのスコートを合わせた、彼女の元気でアクティブなパッションがそのまま形になったようなスタイル。
栗色のゆるふわな三つ編みを弾ませる彼女は、本当に一分でお洋服を決めてきたらしく、鼻をふんすと鳴らして胸を張っている。
先生は首元に揺れるシンプルなペンダントを指先で軽く整えると、満足そうに微笑んだ。
「さあ、これでお出かけの準備はバッチリね。お留守番の任務はこれでおしまい。みんなでお祭りに繰り出しましょうか」
『GRAVITY』の重厚な木製の扉を押し開けて一歩外に出ると、夕暮れの栃木市の空気が、想像以上の鋭い冷気となってわたしたちの肌を小さく刺した。
「うぅ……思ったよりも、ずっと寒いかも……」
わたしはニットの上に羽織ってきた、チャコールグレーのハリントンジャケットの襟元にそっと手を添えた。
ジッパーを完全に開け放した少し大きめのジャケットは気に入っていたけれど、緩やかな袖から滑り込んでくる五月の夜風を防ぐには、少しばかり軽装すぎたかもしれない。
寒さに思わず身を縮めると、服の下にネックレスとして忍ばせている古い鉄鍵の、硬く冷たい輪郭が直接胸元に触れた。
隣を歩く未希ちゃんも寒さに肩を小さくすくめ、先生もジャケットの前を少しだけ合わせている。
つい数日前までの、あのまとわりつくような季節外れの真夏日の余韻はどこへやら、巴波川の川面を渡って吹き込んでくる風は、驚くほど硬質で冷徹だった。

けれど、店から歩いてわずか五分。
うずま公園へと続く細い石畳の道を歩くうちに、その肌寒さを一瞬で上書きしてしまうような、鮮烈な熱気が風の境界線を越えてわたしたちの鼻腔を掠めた。
「あ、匂いがしてきたっ!
クミンやパプリカのスパイスと、ジューシーなお肉の焦げる、もの凄く魅力的な香り!」
リョウリちゃんの鼻がぴくぴくと嬉しそうに動き、スニーカーの足取りが目に見えて軽くなっていく。
冷たい夜風に乗って遠くから運ばれた焦げたソースの匂いや、パチパチと爆ぜる炭火の煙。
それは、寒さに身を縮めていたわたしたちの放課後の時間を、一気にお祭りのまばゆい高揚感へと引きずり込んでいくようだった。
川面の境界線、大人の特権とケバブの誘惑
石畳の路地を抜けて視界がふっと開けた瞬間、わたしたちは誰からともなく足を止め、小さく息を呑んだ。
普段なら、まばらな街灯が寂しく川面を照らすだけのはずのうずま公園が、今夜ばかりはまったく違う鮮烈な色彩と熱量で満たされていたからだ。

「わあ……! すごい、いつもの公園じゃないみたい……!」
隣を歩く未希ちゃんが歓声をあげ、袖で口元を隠しながら、圧倒されたようにきょろきょろと周囲を見渡している。
夜の闇の中に、ずらりと白いテントの屋根が連なり、その内側から漏れ出す温かみのある電球の光が、公園全体を淡くオレンジ色に染め上げていた。
大勢の人たちが肩を並べ、プラスチックのコップを掲げては楽しげに笑い合う声。
地元の人たちのざわめきが波のように重なり合って、静かだったはずの巴波川のせせらぎを心地よくかき消していく。
テントの光の帯が、暗い川面に長く伸びてゆらゆらと揺れている様子は、なんだか遠い異国の夜市に迷い込んでしまったかのような、不思議な非日常の錯覚を抱かせた。
けれど、楽しげな喧騒のすぐ向こうから吹き抜けてくる川風はやっぱり鋭く冷たくて、会場の熱気と混ざり合いながら、わたしたちの肌を奇妙に刺激する。
「うぅ、やっぱりちょっと寒いね……」
わたしは上着の襟元をもう一度きゅっと引き寄せ、少し大きめの袖の中に両手を引っ込めた。
風にふわりと揺れる未希ちゃんの白いスカートが、お祭りの明かりを優しく吸い込んでいる。
その隣で、リョウリちゃんだけは寒さなんて一ミリも感じていないかのように、早くもその場に足踏みをして靴を鳴らしていた。
公園の一角、巴波川にかかる二本の橋の向こう。
対岸のエリアに、お目当ての屋台ブースが軒を連ねているのが見えた。
リョウリちゃんが遠目から完全にロックオンしているのは、白くスパイシーな煙を勢いよく上げているケバブのお店だ。
「クミン! それに、パプリカのスパイス!
あそこからもの凄く良い匂いが漂ってくるよ、みんな! 一刻も早くあの橋を渡って、お店の列に並ばなくちゃ!」
リョウリちゃんが犬のように鼻をぴくぴくさせ、今にも橋の向こうへと全速力で飛び込もうとする。
そんな彼女の様子に、彩莉栖先生はくすくすと楽しそうに肩を揺らすと、手前側にあるビール販売所のテントを指差した。
「ここ、ジュースも一緒に買えるみたいよ。
みんなの分の飲み物は私が買って、あの橋を渡ったすぐの川沿い――ケバブ屋さんの目の前にあるイートインスペースに席を取っておくから。リョウリちゃんたちは先に橋を渡って、お肉の列に並んで大丈夫よ」
「本当!? さすがお出かけのプロ、アイちゃん先生っ!
それじゃあ私たちはケバブを限界まで買い占めてくるから、そこで待っててね!」
待ってましたとばかりに元気よく手を振ったリョウリちゃんが、三つ編みをぴこぴこと元気いっぱいに弾ませながら、太鼓橋の向こうへと猛スピードで駆け出していった。
「あ、待ってリョウちゃん、お財布はちゃんと持った!?」
未希ちゃんが慌てたようにその後を追いかけて橋を渡っていく。
二人の賑やかな背中を見送りながら、わたしは隣に立つ先生と一緒に、ビール販売所のテントへと一歩近づいた。
カウンターの向こうには、様々な銘柄のタップや瓶、そしてカラフルなラベルのジュースやお酒がずらりと並んでいる。
このお祭りは環境への配慮からマイカップやマイグラスの持ち込みが自由らしく、見渡すと、常連らしき大人たちは首から下げたお気に入りのタンブラーや過去のイベントの記念カップを嬉しそうに掲げていた。
それに、大多数の人はわざわざ器を用意せず、購入した缶やボトルからそのまま直に飲んでいる。
わざわざ百円を出して、専用のオリジナルプラスチックカップをその場で買う人なんて滅多にいないようだった。
けれど先生は、並んだメニューの文字を上から下まで楽しそうに指先でなぞりながら、うっとりと微笑んだ。
「やっぱりビールは、ちゃんと器に注いだ方が美味しいものね。
それに、これだけ珍しい銘柄が揃っているのだもの。最初の一杯は、このすっきりしたペールエールにしようかしら。それとも、あっちの芳醇な黒ビールも捨てがたいわね……」
真剣な表情で銘柄を吟味している先生の瞳は、なんだか学校で見せる姿からは想像もつかないほど、少女のようにきらきらと輝いている。
しばらく楽しそうに悩んだ末、先生は小さな財布から小銭をスマートに取り出して、わたしの分の冷たいジュースと、自分のビール、それからイベント限定の記念プラスチックカップをひとつ注文した。
まだお酒の飲めないわたしには、今のところ全く関係のない『大人のための器』。
けれど、お気に入りの一杯を注いでもらうために愛おしそうにカップを傾ける先生の横顔を見ていると、なんだか綺麗なお姉さんの秘密の趣味に付き合っているような、不思議な優越感が胸の奥をくすぐった。
「よし、これでこちらの準備はバッチリよ、星名さん。お待たせしてごめんなさいね」
両手に冷たい飲み物と、新調したロゴ入りのカップを持った先生と一緒に、太鼓橋を渡って対岸へと進む。

橋を渡りきったすぐの場所、ケバブのお店のすぐ目の前に広がる、川沿いの小さなテーブル席。
ライトに照らされた巴波川の水面を間近に臨む椅子に腰を下ろすと、上着の隙間から冷気が滑り込んだけれど、なんだかわたしたちだけの特別なお留守番の延長戦が始まったような、温かな高揚感が胸に満ちていく。
「スズリさんたち、もう並べているかしらね」
先生がプラスチックカップに注がれた、きめ細かい泡の乗ったビールを愛おしそうに見つめながら、うっとりと微笑んだ。
「あ、目の前ですよ。ほら――」
わたしが笑いながら指をさしたすぐ先、屋台の灯りの中に、お肉の煙に巻かれながら嬉しそうに並んでいるリョウリちゃんたちの賑やかな後ろ姿が、すぐ近くに見えた。
あんなに嬉しそうな顔をされたら、わたしの分までケバブを大人買いして戻ってくる姿が、今からもう簡単に想像できてしまう。
「本当に元気ねえ」と目を細める先生の隣で、わたしは冷たいジュースの缶を両手で包みながら、早くあの山盛りのケバブにありつきたいな、と密かに自分のお腹を鳴らした。
微醺の引力、二人だけの秘密と預けられた体温
「お待たせしましたーっ! アイちゃん先生、ねーあ!
見て見て、焼きたて熱々の巨大ケバブ、無事に人数分ゲットだよーっ!」
橋の向こうから、両手にずっしりとした紙包みを抱えたリョウリちゃんが、今にもステップを踏みそうな足取りで戻ってきた。
その後ろから、未希ちゃんが少し息を弾ませながら追いかけてくる。
「もう、リョウちゃん早すぎるよ……」
二人が席にたどり着いた瞬間、包みから溢れ出したスパイスとお肉の強烈な匂いが、川沿いのテーブル席を一気に支配した。
「本当にすごいボリュームねえ。
スズリさん、よくあの行列の中でこれだけ買ってこられたわね」
彩莉栖先生が目を丸くしながら、自分の目の前に置かれた、溢れんばかりにお肉が詰まったピタパンを見つめる。
「ふふん、お肉の匂いを嗅ぎつけたときの、私の突進力を甘く見てもらっちゃ困るよ!
それじゃあアイちゃん先生、飲み物の準備はいい? 私たちの喉は、もうカラカラの限界なんだからね!」
リョウリちゃんが自分のジュースの缶を待ちきれないように掴み、未希ちゃんも自分の分を受け取って、冷たいアルミの輪郭をそっと指先で確かめる。
先生はうれしそうに、先ほど新調したお祭り限定の記念プラスチックカップを両手で包むようにして掲げた。
「ええ、みんなお疲れ様。冷めないうちに、さっそくいただきましょうか」

夜風がふっと川面を渡り、わたしたちの頬を白く冷たく撫でていく。
けれど、目の前にある出来立てのケバブの熱気と、みんなの弾んだ笑顔が、その寒さを完全に忘れさせてくれていた。
わたしも自分のジュースを掲げ、先生の持つ透明なカップ、そしてリョウリちゃんたちの缶の真ん中へと、そっと寄せ合わせる。
コツッ、カチャッ、と、それぞれに違う硬い音が小さく重なり合って、冷たい夜の空気に優しく溶けていった。
「かんぱーいっ!」
リョウリちゃんの元気な声に合わせて、みんなで一斉に喉を鳴らす。
風に冷やされた体に、炭酸の心地よい刺激と甘酸っぱさがじわりと染み渡っていくのが、たまらなく美味しくて息が漏れた。
「んんーっ!! 最高の組み合わせ!
それじゃあみんな、待ちに待ったお肉のパラダイスへ、突撃だよ!」
リョウリちゃんが大きな口を開けてケバブに思い切りかぶりつき、幸せそうに頬を膨らませる。
未希ちゃんもそれを見て小さく笑いながら、自分のケバブを少しずつ大切そうに口へと運んでいた。
「星名さんも、冷めないうちにどうぞ」
先生が、きめ細かい泡の乗ったビールを一口美味しそうに喉へと流し込み、微笑みながらわたしを促す。
「はい、いただきます」
スパイシーでジューシーなお肉を一口頬張ると、口いっぱいに広がる旨味と温かさに、胸の奥までじんわりと満たされていくような気がした。
「ふふ、美味しいでしょう?
私のこのビールも、とっても素敵なのよ」
先生が嬉しそうに目を細め、少し白濁した柔らかな金色を湛えるプラスチックカップを愛おしそうに傾けた。
先生がじっくりと吟味して一杯目に選んだのは、ドイツの小麦ビールである『エルディンガー』という銘柄だ。
千三百円という、高校生の感覚からすれば少し目玉が飛び出るようなお値段だけれど、大人の先生にとっては特別なご褒美なのだろう。
「まるで果物から作られているみたい。
すっきりしていて、もの凄くフルーティーな甘酸っぱさだわ」
そう言って微笑む先生の耳元は、五月の夜風の寒さのせいか、あるいはアルコールのせいなのか、ほんのりと赤く色づいている。
緩やかに波打つ髪の隙間から覗くその耳を小さく揺らしながら、先生は本当に幸せそうに、贅沢な一杯をじっくりと堪能していた。
すぐ目の前では、リョウリちゃんたちがケバブを瞬く間に平らげ、早くも次のグルメを求めて賑やかに盛り上がっている。
「リョウちゃん、次はあっちのフライドポテトも買いに行こうよ!」
「いいね未希ちゃん、突撃だーっ! ねーあの分も何か美味しそうなの買ってきてあげるからね!」

二人が楽しそうに笑い合いながら、再び橋の向こうのブースへと視線を巡らせて走り出していく。
そんな教え子たちの賑やかな後ろ姿を、先生は頬杖をつきながら、どこかトロンとした目で見つめていた。
お酒が進むにつれて、いつも学校で見せるお堅くて超然とした司書の雰囲気は、みるみるうちに霧散していく。
心なしかいつもより口調が甘く、陽気でどこか色っぽい抜け感が、先生の全身からふわりと漂い始めていた。
「実はね、星名さん。
さっきの販売所で、どうしても気になって、これも一緒にちゃっかりキープしておいたの」
先生がいたずらっぽく微笑みながら、テーブルの下からそっと取り出したのは、一本のスマートなガラスボトルだった。
ラベルには、本数限定と書かれたスペインのスパークリングワイン『カヴァ』の文字が躍っている。
三千円というボトルの価格を嬉しそうに語る先生の姿は、なんだか秘密の宝物を見せてくれる子供のようだ。
「……みんなには、内緒よ?」
不意に、先生が座る位置をすぐ横へと滑らせてきて、わたしの耳元で小さく、悪戯っぽく囁いた。
突然近づいてきた綺麗なお姉さんの温かい吐息が耳朶をかすめて、心臓がドクンと大きく跳ね上がる。
「うぅ、それにしても、やっぱり川沿いは少し冷えるわね……」
川風に身を縮めるわたしに寄り添うように、先生がすっとさらに距離を詰めてきた。
肩と肩がぴったりと重なり合い、先生の細い体が隙間なく密着する。
上着越しでもはっきりと伝わってくる、お酒と熱いケバブで驚くほど高くなった先生の体温。
お祭りのスパイシーな匂いと、大人の女性特有の柔らかな温かさが、容赦なくわたしの五感を狂わせていく。

「あ、あの、彩莉栖先生……?
ちょっと、近いです……っ」
完全に自分の逃げ道を塞がれたような先生の圧倒的な引力を前にして、わたしは顔がカッと熱くなるのを自覚しながら、ドギマギと激しく脈打つ胸を必死に抑えることしかできなかった。
(……リョウリちゃん、未希ちゃん、お肉はもういいから、一秒でも早く戻ってきて……っ!)
第23話・前編『始まりの地 —夜風に弾ける乾杯の音—』(後編に続く)