PR 共鳴するテクスト

『蔵の街のグラビティ』第24話・後編『あじさい坂の残響 —踏み締める足跡—』

「……はぁ、はぁ……っ。
大丈夫……? 未希ちゃん」

わたしが肩を上下させ、乱れる息を吐き出しながら横を向くと、未希ちゃんもまた、白く細い首筋に大粒の汗を滲ませていた。
彼女は額の汗を小さく振って払い、熱い吐息をこぼしながら、なんとか静かに首を振る。

「……はぁ……っ、うん。
ちょっと、息が……上がっちゃう、けど。
でも……不思議と、苦しくないよ」

ト、ト、と階段に靴底がぶつかる不揃いな足音の合間で、未希ちゃんが急な傾斜に足がもつれそうになったわたしの腕を、そっと支えてくれる。
肌が触れ合った瞬間、衣服の擦れる音の向こうから、お互いの胸の奥が刻むドクドクという激しい鼓動と、熱く湿った呼吸がすぐ耳元でシンクロした。
一歩ずつ、汗まみれになりながら階段を踏み締めていくその泥臭い音のすべてが、胸の奥をじんわりと温めるような心地よさとなって響く。

おばあちゃんがかつて、あの日にはるか高いこの場所を目指して必死に歩んだ足音を、わたしたちは今、確かに二人で追体験している。
服の下にある大切な重みが、これから現像するべき強い約束の音に向かって、わたしの意識を静かに、けれど深度を増して研ぎ澄ませていった。

見上げれば、先行していた三人の、地面を這うようなずりずりとした足音が、ようやく最後の赤い鳥居の下へと滑り込んでいくのが見えた。
ドサリと崩れ落ちる鈍い音、それをねぎらうリョウリちゃんの「はぁーっ、ついたぁあ!」という掠れた叫び、理羅さんの喉の奥から絞り出すような安堵の溜息が、山を渡る風の音に混ざってかすかに届く。

「……はぁ、っ……わたしたちも、いこう」

隣を歩く未希ちゃんに声をかけると、彼女は乱れた前髪の隙間から柔らかく微笑んで頷いた。
「……うん。あと……っ、もう少しだね」

随神門をくぐり抜けてからは頭上を遮る木々はなく、両脇にきれいに手入れされた木々と紫陽花が整然と並んでいる。
ひらけた空から容赦なく降り注ぐ白い光が、汗だくのわたしたちの視界を眩しく灼きながら、最後の直線をどこまでもストレートに突きつけていた。
ギィ、と中央の手すりを握るお互いの手のひらがきしむ音。
ザッ、ザッ、と太ももの重みを堪えながら、一歩ずつ最後の上り坂を踏み締める靴底の音。
最後の十段を数え切る頃には、あれほど遥か遠くに見えていた赤い櫓のような鳥居が、すぐ目の前で圧倒的な存在感を放って佇んでいる。

ゴウ、と梅雨の湿気を孕んだ山の突風が吹き下ろし、わたしたちの汗ばんだ衣服を激しく揺らした。
わたしと未希ちゃんは、お互いの荒い息遣いを耳の奥で聴きながら、どちらからともなく歩調をぴったりと揃え──千段の旅を締めくくる最後の一段を、ザン、と力強く踏み締めた。

紫陽花の誓い、約束の錨

赤い鳥居の影をくぐり抜けた瞬間、それまで耳元を閉ざしていた自分たちの荒い呼吸を押し流すように、パッと世界が開けた。

「わあ……っ、すごい人……!」
隣を歩く未希ちゃんが、弾んだ声を上げて目を輝かせる。

あじさい坂を登っている最中の、あの静かで、どこか内省的ですらあった緑の静寂が嘘のようだ。
一歩足を踏み入れた大平山神社の境内には多くの参拝客たちが行き交い、梅雨の晴れ間の賑わいに満ちていた。
石畳を踏み締める無数の靴底の音、社務所の方から聞こえてくるお守りの涼やかな鈴の音、そして遠くでジャラジャラと響くお賽銭の音。
それらの日常の柔らかな活気が、千段を登りきったわたしたちの身体を温かく迎え入れてくれる。

ふう、と深く息を吐き出しながら振り返ると、眼下には今しがた必死に登ってきたあじさい坂の階段が、深い緑の底へと吸い込まれるように真っ直ぐ伸びていた。
視界の斜め下方、少し離れた尾根の先に見えるのは、あの冬の凍えるような深夜、みんなで身を寄せ合って初日の出を待った「謙信平」の景色だ。

あの夜は暗闇のせいで距離感が全く分からなかったけれど、昼の光の中で見下ろすと、今いる境内の場所は、あの謙信平すらも遥か眼下に見下ろすほど圧倒的に高くて神聖な場所なのだと、胸がすくような感覚と共に理解できた。
あの時はただ寒さに震えながら、白く煙る甘酒の温かい味と、みんなの笑い声しか覚えていなかったこの神社。

けれど今、正面に堂々と佇んでいるのは、濡れた杉の原生林を背負い、上部に黒い奉納木札をずらりと横一列に並べた、圧倒的な存在感を放つ朱塗りの神門だった。
昼の光の中で見るその重厚な佇まいは、あの夜の曖昧な記憶とは全く違う、背筋が伸びるような厳かさを湛えている。

「はぁーっ! ついたぁあ! 団子! 団子はどこっ!?」
鳥居のすぐ先で、リョウリちゃんがすっかり戻った元気な声を境内に響かせ、両手を広げて深呼吸している。

「少しは声を落としなさい……。周囲の参拝客の目が恥ずかしいですわ……」
理羅さんはそう言って窘めながらも、長い石段から解放された安堵からか、いつもの凛とした笑みを口元に浮かべて、額の汗をハンカチでそっと拭っていた。
そのすぐ後ろでは、寧路ちゃんが「アタシのライフはもうゼロ……」と呟きながら、境内の隅にあるベンチへと吸い込まれるように崩れ落ちていく。

賑やかな三人を見送りながら、わたしと未希ちゃんは自然と歩調を合わせ、境内の左手前側にある手水舎へと向かった。

屋根の下、たっぷりと山の水を湛えた石の大きな水盤の前に立つ。
千段の坂を登りきって熱を持った肌に、水面から立ち上るひんやりとした冷気が心地いい。

右手で木製の柄杓を取り、清らかな水をたっぷりと汲み上げる。
まずは左手を洗い、柄杓を左手に持ち替えて、次は右手を清める。

再び右手に持ち替えて、左の手のひらに少しだけ水を溜めると、それをそっと口に含んだ。
ちいさく口をすすぎ、静かに吐き出す。
最後に、残った水で柄杓の柄を洗い流すように垂直に立てて、元の場所へと静かに伏せた。

「ふふ、寧亜ちゃん、相変わらず所作が綺麗だね」
隣で同じように手を清めていた未希ちゃんが、濡れた指先をハンカチで拭いながら、柔らかく微笑みかけてくる。

「おじいちゃんが、こういうの厳しかったからね。」

ハンカチで軽く手を拭い、数人の参拝客の後に続くようにして、わたしたちは正面の朱塗りの神門をくぐった。
頭上にずらりと並ぶ黒い木札の圧倒的な威圧感をすり抜けると、その奥に佇む落ち着いた木造りの拝殿が姿を現す。
お賽銭箱の前に立ち、小銭入れから取り出した五円玉をそっと投げ入れた。
カララン、と格子に当たって落ちる硬貨の音が、境内の賑わいの中に吸い込まれていく。

姿勢を正し、深く二回、頭を下げる。
胸の前で両手を合わせ、少しだけ右手を下にずらして、パン、パン、と二回、清らかな拍手を打つ。
そのまま指先をぴったりと揃え、両手を合わせて目を閉じた。
千段の石段を無事に登りきれたことへの感謝と、これから行う『現像』への許しを乞うように、胸の中で静かに祈りを捧げる。
最後に、もう一度深く一礼をして、ゆっくりと目を開けた。

「いこっ」
わたしが小さく声をかけると、隣の未希ちゃんも小さく頷いた。
次のお客さんに場所を譲るように、わたしたちは拝殿の前から少し横へと外れ、境内の隅の少しひらけた場所へと移動する。

神前の張り詰めた空気を残したまま、周囲の賑わいから一歩引いたその場所で、わたしはポケットの中からあのおばあちゃんから預かった小さな布の塊──色褪せた紫色の御守りを、そっと取り出した。

長年の歳月に揉まれて、端の方の糸が少しだけほつれている。
けれど、両手で包み込むとその奥からは、まるであの日からずっと時を止め、誰かに見つけられるのを待っていたかのような、かすかな、けれど強固な「約束の重力」の気配が、確かにわたしたちの指先へと伝わってきた。

「未希ちゃん、いくよ」
「うん。いつでも大丈夫」

わたしの言葉に頷き、未希ちゃんがそっと横から手を伸ばしてくる。
お守りを包み込むわたしの両手の上に、彼女の少し冷たい手のひらが優しく重なった。
そっと目を閉じ、お互いの呼吸のタイミングを静かに、深く重ね合わせていく。
すう、はあ、と熱い息遣いがシンクロするにつれて、まぶたの裏の暗闇の向こう、二人の指先が触れ合う狭い隙間から、細く淡い光の糸がするすると走り始めるのが分かった。
それは周囲を行き交う普段着の参拝客たちには決して見えない、わたしたち二人だけの閉じた感覚の世界。
胸の奥で心地よい重力がぐっと深度を増し、砂利を踏む日常の賑やかさや人々の話し声が、まるで水底へ沈んでいくように遠ざかっていく。

代わりに、閉じた耳の奥へ直接流れ込んできたのは──ざわざわとした、全く質の異なる「過去の活気」の雑音だった。

ゆっくりと目を開けると、感覚の海に溺れていた視界は、奇妙な二重露光の色彩に染まっていた。
現在の朱塗りの神門が半透明に透け、その向こう側に、昭和三十年代後半の色彩が鮮烈にオーバーラップしていく。
すれ違う人々の服装はどれも古めかしく、男性は詰め襟の学生服や地味なシャツ姿、女性は慎ましいワンピースやもんぺ姿のままで、楽しそうに笑いながら石段を行き交っている。
遠くの麓からは、今とは違う古い車のエンジン音や、どこか懐かしい街の物音が、梅雨の湿った空気を震わせて響いていた。

今と同じように満開の紫陽花が咲き誇るその石段の上を、息を切らせながら、けれどお互いの手を強く引いて登ってくる若い男女の姿があった。

その顔も、かつての姿も、わたしは写真一枚すら教えてもらっていない。
けれど、両手の中でトクトクと脈打つお守りの重力と、お互いを見つめる二人のあまりにも切実な佇まいが、それが若き日のおじいちゃんとおばあちゃんなのだと、直感的に、理屈抜きで教えてくれた。

青年は途中で足を止め、初夏の濡れた青葉を見上げながら、今にも押しつぶされそうな、ひどく掠れた声を漏らした。
「……東京は、ここよりもずっと人が多くて、せわしなくて、冷たい街だって聞く。
来週には、あの集団就職列車に乗らなきゃいけない。
知り合いも誰もいない……僕みたいな不器用な人間が、あの大都会の大きな音にのまれずに、本当にやっていけるのかな……」

青年の肩は、見知らぬ未来への不安で小さく震えていた。
隣に立つ少女──若き日のおばあちゃんは、寂しさをその小さな胸の奥にぎゅっと押し込みながら、青年の前に一歩進み出た。
商売繁盛や縁結びの神様が祀られるこの大平山神社の拝殿の前で、青年の無骨な手を両手で包み込み、その手のひらに真新しい紫色の御守りを力強く握らせる。

「大丈夫よ。
もし都会の喧騒に迷いそうになったら、いつでもこの御守りを見て」

少女は、涙を堪えるようにして必死に微笑んだ。
「ここには、今日二人で汗をかいて登った千段の石段の足音も、この雨上がりの紫陽花の鮮やかな色も、全部、私が込めたから」

青年は驚いたように御守りを見つめ、それから、壊れ物を扱うように愛おしく握りしめた。
「……ああ。約束するよ。
大都会のどんなに大きな音にも、君のこの想いだけは絶対にかき消させない。
一生懸命働いて、一人前になったら、必ずこの街に、君のところに帰ってくる。
その時はまた……二人でこの千段の階段を登ろう」

二人が御守りを挟んで、切なくも確かな絆の重力で結ばれた瞬間──世界を染めていたセピア色の二重露光が、眩しい光の粒子となって弾けた。
人々の喧騒も古い街の音も、波が引くように現在の平穏な空気へと還っていく。

ハッと我に返ると、わたしたちは元の賑やかな境内の片隅に立っていた。
他のお客さんたちは変わらず楽しそうに行き交っており、わたしたちの異変に気づいた様子は誰一人としてない。
手のひらに残る御守りは、先ほどと変わらず少しほつれたままだが、その意味は完全に書き換えられていた。

「……戦争の悲恋なんかじゃ、なかったんだね」
未希ちゃんが、胸元に手を当てて静かに呟く。

「うん……。これは別れの象徴なんかじゃない。
大都会の荒波にのまれないための、二人の『錨』だったんだ」

二人はあの過酷な時代を、離れ離れになりながらも、このお守りが響かせる約束の音だけを頼りに生き抜いたのだ。
そしておじいちゃんは約束通り帰ってきて、二人は生涯を添い遂げた。
だからこそ、おじいちゃんが先に旅立ち、自分も足が悪くなってベッドから動けなくなった今、おばあちゃんにとってあの千段の石段は、「人生で一番輝いていた、絶対に忘れたくない大切な足跡」そのものだったのだ。

「……あの約束の場所の景色を、あのお団子を味わいたい」
おばあちゃんがベッドの上で漏らしたあの小さな未練の、あまりの重さと純粋さが、追体験を終えたわたしたちの胸に痛いほど響いてくる。

お互いに顔を見合わせ、その約束の重さに静かに胸を震わせていると、いつの間にかわたしたちのただならぬ空気に気づいた理羅さん、寧路ちゃん、リョウリちゃんの三人が、ベンチから歩み寄ってきていた。

◆ ◆ ◆

一通り話を聴き終えた三人は、しばらくの間、じっと手元のお守りを見つめて沈黙していた。

やがて、理羅さんが銀色の髪を指先で軽く払って、フッと頼もしげに笑った。
「……ふん、大都会の音に負けない約束、ですか。
いいじゃない。
GRAVITYの意地にかけて、そのおばあちゃんに最高の『太平山の音』を届けてあげましょう」

「はぁ……。理羅さんがそこまで言うなら、パスするわけにもいかないし。
アタシのHPが完全にゼロになってログアウトする前に、さっさと終わらせてよね。あー、めんどくせ……」
ベンチの背もたれにぐったりと体重を預けたまま、寧路ちゃんが深いため息を漏らす。
けれどその瞳の奥には、いつも通りの気だるさの中に、確かな協力を示す静かな光が宿っていた。

「よーし! 私はまず、お団子食べてパワー充電するぞーっ! ついでに焼き鳥と卵焼きも食べて、おばあちゃんが言ってた『名物の味』を完全にこの舌に叩き込むんだから!」
リョウリちゃんが早くも目をキラキラさせて拳を突き上げる。音集めを完全に口実にしたただの食い気だったけれど、彼女のその健康的な健気さに、境内の厳かな空気が一瞬でいつものわたしたちの空気感へと塗り替えられた。

五人の心が、おばあちゃんのために『太平山の音』を集めるという目的へ向かって、今まさに一つに重なった瞬間だった。

雨上がりのパノラマ、黄金色にほどける約束

神門の朱色が新緑の奥へと遠ざかり、境内の賑やかな砂利の音が少しずつ引いていく。
千段の石段を登りきったわたしたちの身体は、心地よい疲労感と、それ以上に激しい空腹感で悲鳴を上げていた。

「だんご」や「焼鳥」と染め抜かれた赤い暖簾が、梅雨の晴れ間の風に優しく揺れている。
境内からすぐの場所に佇む茶屋『山野屋』の暖簾をくぐった瞬間、甘辛い醤油が焦げる香ばしい匂いと、芳醇な出汁の香りが一気に出迎えてくれた。
その匂いを吸い込んだだけでも、胃袋が猛烈に自己主張を始めるのが分かる。

「ご注文はこちらでどうぞー」
店員さんの威勢のいい声に導かれ、入り口近くのレジで先に注文と会計を済ませるシステムらしい。
壁に掛けられたお品書きの文字を見つめた瞬間、リョウリちゃんの琥珀色の瞳が、獲物を見つけた野獣のようにギラリと輝いた。

「私、名物セット! あ、でももりそばも食べたいから、お団子と焼き鳥と卵焼きにお蕎麦もついた『太平セット』にするんだよっ!
……あ、待って待って、でもこの『やきとり丼』っていうのも絶対に美味しいよね!?
よし、太平セットにやきとり丼単品も追加で!」

「……ちょっとリョウリ、アンタの胃袋のバッファどうなってんの?
完全なチートキャラじゃん。
アタシは名物セットすら重いし、お団子だけでパスしたいんだけど……」
疲れ果てて壁にもたれかかった寧路ちゃんが、半目でリョウリちゃんを睨みつける。

「却下です、寧路。
ここであなたに低血糖で倒れでもされたら、下山中に引きずって歩く羽目になり、私たちの時間的コストが著しく損なわれます。
背負って下りるなどの非効率極まりない選択肢は存在しませんから、不本意でしょうけれど、この名物セットは全量、速やかに摂取しなさい」
理羅さんが腕を組み、冷ややかな、けれどどこか過保護な視線を落とした。

「はぁ……。
理羅さんがそこまで言うなら、おとなしく名物セットにしておくし。
……あー、めんどくせ……」
寧路ちゃんは深いため息を漏らし、完全に諦めた様子で財布を取り出した。

そんな賑やかなドタバタを経て、全員分の会計を済ませる。
「はい、お団子は先にお持ちくださいね。焼き物とお蕎麦は出来上がり次第、番号でお呼びしますので」
店員さんの手によって、お皿の上にこんもりと盛られた白いお団子と、よもぎのお団子が差し出された。
その上から、これでもかとたっぷりの艶やかなこしあんが贅沢に載せられている。

お団子の皿を落とさないように両手で受け取り、レジ横の給水機からセルフサービスで温かいお茶を湯呑みに注ぐ。
番号札を手にしたわたしたちは、店の外に広がっているテラス席──『太平山 展望台』へと移動した。

「うわぁぁぁ、すごいっ!
見て見て寧亜ちゃん、街が米粒みたいに小っちゃく見えてるよ!」
テラス席の最前列に駆け寄ったリョウリちゃんが、柵から身を乗り出すようにして琥珀色の瞳を輝かせた。

「わあ……本当、すごい……」
木製のテーブルに腰を下ろしながら、未希ちゃんも小さく息を呑む。
目の前には、あじさい坂の鬱蒼とした緑の静寂が嘘のような、圧倒的な大パノラマが広がっていた。

雨上がりの澄み切った空気の向こう、青々と茂る初夏の木々の切れ目から、遥か平野の彼方までが霞むように広がっている。
さっきまで自分たちがいたはずの栃木の街並みが、はるか下に小さく、まるで箱庭の模型のようになって溶け込んでいた。

「あー……。
高低差による視界の最適化ログとしては、悪くないじゃん……。
あじさい坂のクソ石段で失ったアタシのライフ、1%くらいはヒールできたかも……」
寧路ちゃんが気だるげに目を細め、遥か遠くで白く煙る地平線を見つめながらぽつりと呟いた。

「……ふん。非効率極まりない登山という手段の、唯一にして最大の価値がこの絶景よ。
この見事な空間設計のパノラマは、確かに認めざるを得ないわね」
理羅さんも銀髪を梅雨の晴れ間の風になびかせ、上品に、けれど満足そうに小さく微笑んでいる。
展望台を吹き抜ける涼しい風が、わたしたちの火照った肌を優しくなぞって冷ましていく。

この素晴らしい景色をご馳走にしながら、まずは手元にある出来立てのお団子を、みんなで一つつつくことにした。

「ふぁーっ!
もちもちだぁ!
このお団子、すっごく柔らかいよ、寧亜ちゃん!」
真っ先にお団子を口に運んだリョウリちゃんが、両手を頬に当てて嬉しそうに声を弾ませる。

「……ん、本当。
もっちりして、すっごく柔らかい……」
リョウリちゃんに促されるようにお団子をそっと口に運んだ未希ちゃんも、嬉しそうに細い眉を下げて目を細めた。

お団子は驚くほどもっちりと柔らかく、そこに絡みつくこしあんはトロトロで濃密な甘みを湛えている。
千段の石段を一歩ずつ踏み締めてきた足の痛みが、そのあまりにも優しい甘みによって、じんわりと芯からほぐれて吹き飛んでいくようだった。

「本当だね。
よもぎの爽やかで清涼感のある香りがふわりと鼻を抜けていって、この濃いあんこの甘さとすごく合ってる……」
わたしが温かい緑茶をすすりながら息を吐くと、隣で理羅先輩がふっと小さく鼻を鳴らした。

「……ふん。
不本意ながら、このお団子のきめ細やかなコシと、小豆の風味を損なわない濃密な餡の練り加減は、理屈抜きで認めざるを得ないわね。
あじさい坂を登るという非効率極まりない苦行に対する、最低限の減価償却としては合格点よ」

理羅先輩はいつものように理屈っぽく不遜な態度を装っているけれど、その銀髪の隙間からのぞく口元は、お団子のあまりの美味しさに、隠しきれない満足感でほんのりと綻んでいる。

「あー、生き返る……。
この濃い甘み、完全に脳に糖分がリロードされていくログが視えるし……」
さっきまで消滅しかけてベンチと同化していた寧路ちゃんも、お団子を小さくもぐもぐと咀嚼しながら、ようやく人間に戻ってきたような顔をしてお茶を喉に流し込んでいた。

◆ ◆ ◆

「6番の番号札でお待ちのお客様ー!」

店員さんのよく通る声が、お茶をすすり終えた絶好のタイミングでテラス席に響き渡った。
「はーいっ!
ここです、ここでーすっ!」
リョウリちゃんがぶんぶんと大きく手を挙げると、店員さんが「お待たせしましたー」と、ほかほかの湯気を立てるお盆を抱えてテーブルまで運んできてくれた。

「わあぁぁっ、美味しそう……!
太平山名物、やきたての焼き鳥に、お蕎麦に、玉子焼!
それから私の、やきとり丼なんだよぉ!」
テーブルの上に、甘辛い醤油だれの焦げる香ばしい匂いが一気にぶわっと弾けた。
見るからにふっくらと大きな黄金色の玉子焼、艶やかなもりそば、そしてご飯の上に焼き鳥が贅沢に九個も敷き詰められたどんぶりがずらりと並ぶ。

「やっぱりみんなで頑張って登った後のこれは、世界で一番美味しい味がするね!」
リョウリちゃんは早くも、どんぶり一杯に敷き詰められた白米の上に、艶やかなタレをまとった大ぶりの焼き鳥がゴロゴロと乗った『やきとり丼』を豪快にかき込んでいた。
「んん〜!
しっとりプリプリ!
甘辛な味わいだけど全然甘すぎなくて、焼き目の香ばしい焦げ目が最高のアクセントになってる!
お肉のジューシーさが口いっぱいに広がるんだよっ!」

「……アンタ、さっきお団子食べたばっかりじゃん。
マジで底なしだし……」
引き気味に呟きながらも、寧路ちゃんは付け合わせの漬物にそっとお箸を伸ばした。
「……あ、でも、この割り干し大根と、大根のたまり漬け……。
ポリポリしてて、ちょうどいい塩気……。
塩分が枯渇してたアタシのライフが、じわじわとヒールされていくログが視えるし……」

「お漬物だけで満足してはいけませんよ、寧路。
この見事に焼き上げられた玉子焼のふんわりとした口当たりを体験しなさい。
中は絶妙な半熟でとろりとしていて、甘みもクドくありません。
添えてある大根おろしに少し醤油をかけて一緒に味わうと、卵のコクが劇的に引き立つように設計されています」
理羅さんがお箸で美しく切り分けた玉子焼を口へ運び、銀色の髪を風に揺らしながら、満足そうに目を細めた。

「でしょでしょ、理羅さん!
それにこのやきとり丼も、本当に最高なんだよぉ!
ふっくらもっちりしたお肉と、刻みのりの磯の香りがご飯の旨みをめちゃくちゃ引き立ててる!
紅生姜の酸味もぴったりだし……あ、えびな屋のゆず七味をハラリとかけると、ゆずの爽やかな香りのアクセントがきいて、さらに箸が止まらなくなっちゃうんだから!」

リョウリちゃんが目をキラキラさせながら丼を箸でかき込むのを、みんなで笑いながら見守る。
展望台を優しく通り抜ける初夏の風が、木々の葉をさわさわと揺らし、お皿や湯呑みが触れ合う小さくてあたたかい音がテーブルを包み込んでいた。

その賑やかなやり取りの傍らで、わたしと未希ちゃんは、お互いにこっそりと視線を交わした。

二ヶ月前、陽葵ちゃんを巡るあの張り詰めた独占欲の中で、胃を痛めながら食べたあの『戦いの味』。

あの時と全く同じ名物セットのはずなのに、驚くほど優しく、あたたかい味がする。
お互いに言葉には出さない。
あの時のピリピリした空気は、二人だけの、少し気まずくて甘酸っぱい秘密のアルバム。

未希ちゃんはふっと優しく微笑み、お箸で一番綺麗に焼けた、一番大きな黄金色の玉子焼をそっと持ち上げた。
そして、そのふんわりとした形を崩さないように、わたしの空いたお皿の上へそっと優しく移してくれた。

「……はい。
寧亜ちゃん、これ」

「あ……。
ありがと、未希ちゃん」

ただ一言ずつの、短いささやき。
けれど、それだけで十分だった。
美味しいね、という想いがお茶のあたたかさのようにじんわりと重なり合い、胸の奥を静かに調律していくのが分かった。

光の糸が紡ぐ残響、五重奏の足音

お腹もライフも完璧に満たされ、お茶をすすりながら一息ついたテラス席。
展望台を吹き抜ける涼しい風に髪を揺らしながら、寧路ちゃんがポケットからスマートフォンを取り出し、半目で液晶を見つめた。

「……ねえ。
ぶっちゃけ根本的なバグがあるんだけど」

「え?
バグって、何が、寧路ちゃん?」
わたしが首を傾げると、寧路ちゃんは画面から目を離さないまま、気だるげに画面をタップした。

「アタシたちがここで普通にお土産のお団子をぶら下げて下山するだけなら……。
あの依頼人のお姉さん──おばあちゃんのお孫さんがやってることと、完全に同一データじゃん。
そんなの、アタシの尊いHPを千段分も無駄死にさせた運営からの嫌がらせにしかならないし」

「あ……」
言われてみれば、その通りだった。
おばあちゃんのために写真や動画を撮って、お土産を買う。
その物理的な手段だけを見るなら、依頼人さんが一人で太平山に登ってしたことと、わたしたちのしていることは何一つ変わらない。

「ふん。鋭い指摘ですね、寧路。
ですが、ただのお土産と観光動画を届けるだけなら、わざわざ私たちの『鑑定』も『調律』も必要ありませんわ」
理羅さんがふっと誇らしげに鼻を鳴らし、湯呑みをテーブルに置いた。

「GRAVITYの意地にかけて、そのお祖母様がかつて心の奥底に刻み込んだ『太平山の情景』を、鮮烈に呼び覚ますほどの最高の上位現像を行いなさい。
それこそが、私たちが千段の非効率を乗り越えてここに並び立つ存在意義ですわ」

「そうだねっ!
太平山のお団子はあんがびっちり詰まってるから、普通に持ち歩く分には崩れないんだよね!
下りる時に、袋を真横にして激しく振りながら歩くとか、極端なことさえしなければ大丈夫なんだから!」
リョウリちゃんは、受け取ったお土産用の手提げ袋をそっと両手で包むように持ち上げた。

「だから、こうやって袋が傾かないようにだけ気を付けて、優しく運んであげるね。
これでおばあちゃんにも、お店で食べるのと同じ、まあるくて綺麗なお団子を食べてもらえるんだよっ!」
折箱の水平を保つように、そっと胸に抱えるリョウリちゃん。
お団子の綺麗な形をそのまま届けてあげたいという、彼女のどこまでもまっすぐで優しい気配りに、わたしはなんだか胸が温かくなった。

「お団子の確保は完璧ですわね。
……さて。では、私たちはこのお守りの本来の『故郷』へ向かいましょうか」
理羅さんがすっと立ち上がり、お店のすぐ先、太平山神社の拝殿へと続く砂利の境内を指し示した。

「そっか……お守り、元々は太平山神社のものだもんね」
「うん。茶屋の周りは人が多すぎて、アタシたちの作業には向かないし。
神社の静かな境内奥なら、誰かに見られる心配もないじゃん」
寧路ちゃんがスマートフォンをポケットにしまい、わたしたちはお店を出て、すぐ隣の静かな境内へと足を踏み入れた。

拝殿までは、目と鼻の先。ほんの百二十メートルほど、砂利を踏みしめて歩くだけだ。
雨上がりの湿った土と、杉の葉の香りがあたり一面に立ち込め、観光地のにぎやかさから切り離された境内奥は、驚くほど静かで神聖な空気に満ちていた。
ここなら、誰の目にも触れることはない。

「よし、ここならバッファは十分。
寧亜、未希。二人の共鳴現像で、お守りの波形を呼び出して。
アタシの自作アプリで、その音響データを直接受信してスマホに落とし込むし」
寧路ちゃんが不敵に口元を緩め、スマートフォンに親指ほどの小さな自作のドングルを接続して、アプリを起動した。

「うん、いこう、未希ちゃん」
「うん、寧亜ちゃん」
わたしと未希ちゃんは顔を見合わせ、そっと頷き合った。

わたしがそっと、少しほつれたお守りに指先を触れる。
──接触直後、耳の奥に強烈な不協和音がなだれ込み、頭が痛む。
わたしは胸元の鍵をぎゅっと握りしめた。
鍵が正しい音程で小さく共鳴し、ノイズの波を綺麗に凪ぎ払っていく。

(あ……聴こえる……)
耳の奥が熱くなるような感覚とともに、鮮明な「音」が、静かにその輪郭を結び始めた。
おじいちゃんの穏やかで少し早い心拍音、深く震える呼吸。
そして、山頂を吹き抜ける風の音に混ざるように、おばあちゃんの名前を愛おしそうに呼ぶ、あの日のあたたかい声の響き──。

何も言葉なんて交わしていないのに、その音が最高潮に達した瞬間、吸い寄せられるように未希ちゃんの手が横からそっと重なった。
わたしの「記録を読み出す力」と、未希ちゃんの「形を与える情念」が、示し合わせたように完璧なタイミングで同期し、共鳴現像が発動する。

その瞬間、お守りから解き放たれた光の帯が、わたしたちの頭上に広がる青空を鮮やかに塗り替えていった。
それは、かつての温かい約束を思わせる黄金色の残光と、あじさいの青紫を宿した、仄かな薄紅(うすべに)をにじませた銀白(ぎんはく)の、巨大なオーロラのような帯だった。

かつての景色がそのまま浮かび上がるわけではない。
けれど、梅雨の晴れ間の光に溶け込んでいくその美しい二重奏のような輝きは、何よりも鮮烈に、二人の約束がこの場所に確かに存在していたことを告げていた。

「う、美しすぎますわ……これが、二人の約束の景色……」
理羅さんが息を呑む。
その光の帯の空間から、かつておじいちゃんがあじさい坂を一段ずつ踏み締めていた、優しく力強い足音の響きと、おばあちゃんを愛おしそうに呼ぶ穏やかな語りかけ、山頂を吹き抜ける風の音が優しく溢れ出す。

「……おじいちゃんはね、大都会の雑音に押しつぶされそうになったら、いつでもこの山の音を思い出してほしいって、そう願っていたんだね……」
未希ちゃんがお守りにそっと触れたまま、そこに込められたおじいちゃんの優しい想いをほどくように、その心の声を静かに教えてくれる。

「……同期率、測定不能パーセントを検出。最高解像度の空間音響、受信完了だし」
寧路ちゃんが画面をスワイプすると、おじいちゃんの記憶の旋律と、今日のわたしたち5人の笑い声、風の音が重なり合った完璧なデジタルデータが、スマートフォンの深層へと美しく定着した。

二人がそっと手を離すと、空間を埋め尽くしていた美しい光の帯は、蛍の光のように静かに消えていった。
「……ふぅ。お疲れ様、寧亜ちゃん」
未希ちゃんがふわりと微笑む。
大仕事の緊張が解けたのだろう、重ねた彼女の指先がかすかに震えているのが見えた。
未希ちゃんはそれを隠すように両手を後ろに回して指を組み、少しだけはにかむように肩をすくめた。

「風が冷たいね」
わたしが隣にそっと寄り添うと、未希ちゃんは驚いたように目を瞬かせた。

「うん、そうだね」
嬉しそうに声を弾ませて頷く彼女と歩幅を合わせ、わたしたちは静かに歩き出した。

◆ ◆ ◆

「お土産も、音の現像も完了しましたわね。
それでは下山いたしましょう。私たちの調律を待つ、お祖母様たちの元へ」
理羅さんの先導で、わたしたちは今度こそ、あじさい坂の石段へと向かって歩き出した。

登る時よりも、下り道の方がずっと膝に堪える。
一段下りるたびに太ももがじんわりと熱くなって、一歩ごとに体力が吸い取られていくみたいだ。

「あーあ……下りこそ膝のバッファが完全に限界だし……脚、すでに笑い始めてるじゃん……」
寧路ちゃんがぶつぶつと文句をこぼしながら、手すりを頼りに慎重に足を下ろしていく。

リョウリちゃんもお団子の手提げ袋を傾けないよう、一歩一歩の衝撃を膝でそっと殺しながら、まるで抜き足差し足のような不思議なステップで石段を下りていた。

「弱音を吐くなど見苦しいですわ、寧路。
下りこそ、体幹と姿勢の美しさが問われるものですわ」
そう言う理羅さんだって、いくら動きやすいスニーカーを履いているとはいえ、この濡れた石段を一段ずつ下りるのは絶対にきついはずなのに、背筋だけはピシッと伸ばしたまま、凛とした足取りで丁寧に進んでいく。

その少し意地を張った後ろ姿がなんだかおかしくて、わたしと未希ちゃんは思わず顔を見合わせて、小さく吹き出してしまった。

物理的な脚のきつさとは裏腹に、わたしたちの心は、不思議と温かかった。
石段をトントンと踏みしめる、少し不揃いな足音。
リョウリちゃんが大事そうに抱えるお土産の袋が揺れる、カサカサというかすかな音。
鬱蒼とした緑の木漏れ日の中を、わたしたちの『歩く音』が、まるで一つの調律された五重奏のように心地よく響き合っていた。

登り始める前と後で、わたしたちの距離が、わたしたちの奏でる『日常の音』が、少しだけ優しく調律されていることに気づいて、わたしはそっと胸元の鍵に触れて微笑んだ。

やっとの思いであじさい坂の長い石段を下りきると、鬱蒼とした木々の合間から、まばゆい午後の陽射しが差し込む麓の臨時駐車場が見えてきた。
すると、リョウリちゃんが「あ!」と小さく声を上げて、駐車場の端を指差した。

「みんな、帰りにあそこのお土産売り場に寄ってもいい?
行きにバスから見えて、ちょっと気になってたんだよね!」

リョウリちゃんが小走りに向かった先には、臨時駐車場の職員さんたちが数人、のんびりと座っている簡素な白いテントがあった。
パイプ脚のテーブルの上に、キーホルダーなどのキャラクターグッズや、箱に入った保存のきくお菓子がぽつりぽつりと並べられているだけの、とても素朴な売り場だ。

「……うわぁ、ほんとに簡単なものしか置いてないんだね。
お団子とか、もっとお土産がいっぱいあると思ったのに……」
リョウリちゃんが少し肩を落として、テーブルの上のマスコットをツンツンとつついた。

「まあ、臨時の売り場なんてこのようなものですわ。
それに私たちは、すでに茶屋で最高のお団子を手に入れていますもの」
理羅さんが優しく微笑みかけると、リョウリちゃんは「そっか!」と、すぐにいつもの明るい笑顔を取り戻した。

「うん! アタシたちには本命のだんごがあるもんね!
よし、固くならないうちに早くおばあちゃんに届けに行こう!」

「固くなる心配より、アタシの足が千切れる心配をしてほしいし。
バス、ちょうど来るみたいだし、早く乗りたいし……」
寧路ちゃんがスマートフォンで時刻表を確認しながら、すぐ近くの停留所へと力なく歩き出す。
ちょうどタイミングよくやってきた路線バスに乗り込み、わたしたちは整理券を受け取って座席に腰を下ろした。

冷房の効いた車内で一息ついているうちに、バスはゆっくりと坂を下り、栃木の街中へと入っていく。
車窓から、青空の下で穏やかにきらめく巴波川の川面と、立ち並ぶ美しい蔵の街並みが見えてきた。

手元にあるお団子と、スマートフォンに定着させたおじいちゃんの約束の音。
おばあちゃんへ届けるふたつのお土産を携えて、わたしたちはバスを下車し、彼女たちの待つ場所へと少しだけ歩幅を早めた。

あじさい色の現像、茜色の綱手道に響く重力

バスを下車して少し歩き、病院の自動ドアをくぐると、ひんやりとした消毒液の匂いが鼻をかすめた。
その瞬間、隣を歩いていた未希ちゃんが、ぴたりと足を止めた。

「未希ちゃん……?」
わたしが不思議に思って覗き込むと、彼女はすっかり血の気の失せた顔で、虚ろに白い床を見つめて立ち尽くしていた。
細い指先できゅっと自分の胸元をかきむしるように握りしめ、浅い呼吸を繰り返している。
まるで、今いる場所ではない、どこか果てしなく冷たくて、暗い『別の白い部屋』を見つめているかのように。

「──あ、ううん。なんでも、ないよ」
わたしの声で、未希ちゃんははっと弾かれたように焦焦(しょうしょう)と視線を彷徨わせ、それから、いつもの穏やかな笑みを無理に引き絞るようにして浮かべた。
「ちょっと……この匂いに、びっくりしちゃっただけ。もう、大丈夫だから」
やっぱり、さっきの山登りと現像で、思った以上に体力を削られていたのかもしれない。
わたしが心配そうに見つめると、未希ちゃんは「本当に大丈夫だから」と困ったように笑い、わたしたちを待つロビーへと一歩を踏み出した。

ロビーのベンチから、見覚えのあるお姉さん──今回の依頼人であるお孫さんが、すぐにわたしたちに気づいてパッと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。

「皆さん、おかえりなさい。……あ、本当にお団子、買ってきてくださったんですね」

◆ ◆ ◆

静まり返った白い病室のドアを静かに開けると、ベッドの上で小さく体を起こしたおばあちゃんが、弱々しく、けれど嬉しそうに目を細めた。
「まあ……皆さんで、わざわざ登ってくださったのねぇ」

リョウリちゃんは、まるで宝物でも扱うように、折箱の入った手提げ袋をそっとベッド脇のテーブルに置いた。
「おばあちゃん、これ、太平山のお団子です!
買ったばかりだから、まだ柔らかいうちに食べてみてください!」

「ふふ、ありがとう。お行儀が悪いけれど、一口、いただこうかしら」
お孫さんが手際よくお団子を小さく切り分け、おばあちゃんの口元へと優しく運ぶ。
艶やかな餡をまとったまあるいお団子を、おばあちゃんがそっと口に含んだ。
「……まあ。甘くて、本当に美味しい。あの人と食べた、あの時のままだわ……」

おばあちゃんの瞳に、じんわりとあたたかい涙がにじみ始める。
その瞬間に合わせるように、寧路ちゃんがポケットからスマートフォンを取り出し、画面を静かにタップした。
「おばあちゃん、これも。おじいちゃんからお土産だって」

スマートフォンの小さなスピーカーから、静かに『音』が流れ出す。
それは、観光用のビデオカメラが拾うような平坦な音ではない。
ざわざわと優しく揺れる太平山の木々の葉擦れ、優しく吹き抜ける初夏の風の音。
そして──その風の音の向こうから、まるですぐ隣にいるかのように、低くて穏やかな、おじいちゃんの優しい声が響いてきた。

『──ほら、見てごらん。あじさいが本当に綺麗だよ、お前──』

「え……? おじいちゃんの声……? なんで……」
風の音に混ざる懐かしい二人の笑い声を聴き、お孫さんは息を呑んでスマートフォンを見つめた。

「ああ……」
おばあちゃんは、お団子の甘さを噛み締めながら、流れ落ちる涙を拭おうともせず、ただ愛おしそうに目を閉じた。

「聴こえるわ……あの階段の匂いがする。
あなた、本当に……本当に、あそこから帰ってきてくれたのね……」

耳の奥に残るあの日の風、口いっぱいに広がるお団子の甘み。
ただのデータでも、ただのお土産でもない。
ふたつが合わさった瞬間、おばあちゃんの心のなかに、かつて愛する人と見上げた太平山の鮮烈なあじさいの景色が、確かに「現像」されていた。
涙を流しながら微笑むおばあちゃんの穏やかな横顔を、お孫さんはその肩をそっと抱きしめながら、何度も、何度も頷くように見つめていた。

──それを見届けて、わたしたちは静かに病室を後にした。

◆ ◆ ◆

病院を出る頃には、初夏の長い一日もようやく終わりを迎えようとしていた。
すっかり茜色に染まった栃木の街。
巴波川の穏やかな川面に、夕暮れの柔らかいオレンジ色の光がきらきらと反射して揺れている。

「ふぅ……。でも、お祖母様、本当に喜んでくれて良かったですわね」
理羅さんが、どこかやり遂げたような柔らかい表情で、巴波川に沿って伸びる綱手道を歩く。

「うん! お団子も綺麗なまま食べてもらえて本当によかった!」
お団子を無事に届けられた安心感からか、リョウリちゃんが嬉しそうに胸をなでおろした。

「アタシはもう一歩も歩けないし……。家に着いたら、即ソファーにダイブして、アイス食べながら動画観るし……」
寧路ちゃんががっくりと肩を落として、今にも地面に溶けそうな声で愚痴をこぼす。

「ふふ、寧路ちゃん、お疲れ様。リョウリちゃんも、お団子ありがとね」
限界寸前な彼女たちのやり取りに、わたしは優しく微笑みながら声をかけた。

他愛のない、いつもの騒がしくて温かい帰り道。
歩くわたしたちの影が、夕暮れの石畳の上に長く伸びている。

「──ねえ、寧亜ちゃん」
不意に、隣を歩いていた未希ちゃんが、そっとわたしの右手を握った。

ぎゅっと、少しだけ強い力だった。
その手のひらから、かすかな、けれど確かな震えが伝わってくる。
さっき病院の入り口で見せた、あのどこか遠くを見つめるような不穏な横顔と、指先の冷たさが脳裏をよぎる。
わたしがそっと顔を向けると、未希ちゃんは夕暮れの光に照らされながら、少し寂しそうに、でも、この上なく愛おしそうに微笑んでいた。

「私たちは、いつまでも一緒に、あの階段を登り続けようね」

その言葉の重みが、手のひらの微かな震えを通じて、わたしの胸の奥深くへと真っ直ぐに沈み込んでいく。
未希ちゃんがその細い体に抱え込み続けている、果てしなく重い記憶。
そして、普通の人間としては生きられないという事実。
そのすべてを完全に分かち合うことはできなくても、この震えも、その重さも、隣で一緒に背負って進んでいきたい──それこそが、わたしたちの静かな、けれど何よりも強い、約束の重力だった。

「うん」
わたしは未希ちゃんの手を、その震えを包み込むように、優しくぎゅっと握り返した。

第24話・後編『あじさい坂の残響 —踏み締める足跡—』(完)



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