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『蔵の街のグラビティ』第24話・前編『あじさい坂の残響 —踏み締める足跡—』

しとしとと絶え間なく降り続く雨が、栃木の街を淡い灰色に染め上げていた。
六月の梅雨空はどこまでも低く垂れ込め、巴波川の鈍く光る水面に、終わりのない同心円の波紋をいくつもいくつも描き出している。
歴史ある黒漆喰の蔵の壁は水分をたっぷりと吸い込んで、いつもより深く、重い影を路地に落としていた。

わたし――星名寧亜は、骨董店『GRAVITY』の薄暗い窓辺に佇み、雨粒が描く窓の向こうをじっと見つめていた。
店内に漂うのは、年月を経て少し湿った古い紙の匂いと、微かに残るお香の残り香。
静かな空間を遮断するように響く外の雨音は、まるですべての歴史を優しく洗い流していくかのような、心地よい重力を伴って耳の奥へと染み込んでくる。

服の内に忍ばせた鉄鍵に、布地越しにそっと指先で触れると、ひんやりとした金属の質感が、わたしの意識を正しい現実のピッチへと繋ぎ止めてくれた。
こんな雨の日は、世界中の物の「音」がいつもより低く、深く沈み込んで、静かな眠りについているように思える。

わたしは小さく息を吐き、静寂そのもののような薄暗い店内を見渡した。
雨粒が窓ガラスを叩く規則的なリズムだけが、この終わらない梅雨の放課後を、ゆっくりと刻み続けている。

色褪せた御守りと、雨の日の依頼人

「――あの、すみません……急に、こんな雨の日に押しかけてしまって……」

お店の入り口にある、ステンドグラスの窓が嵌め込まれた重厚な両開きの木製扉が静かに開き、濡れた傘を丁寧にすぼめながら、見慣れない若い女性が入ってきた。
色鮮やかなガラスを伝う雨粒の向こうから現れた彼女は、肩がしっとりと濡れており、その表情には焦りと、どこか切羽詰まったような陰りが色濃く滲んでいる。

「構いませんわ。
この梅雨の雨量では、あなたが慌てて当店に駆け込むのも極めて合理的な帰結ですから。
……まずはその濡れたお体を拭いて、落ち着いて用件をお話しいただけますか」
カウンターの奥から、店主である理羅さんが、いつも通りの論理的な丁寧語――けれど不思議と反論を許さない絶対的な説得力を伴った静かな声で彼女を迎え入れた。

理羅さんは無駄のない動きで乾いたタオルを差し出し、彼女を古びた木製の椅子へと静かに促した。

「ありがとうございます……。
あの、こちらで『物の思い出』を調べていただけるというのは、本当でしょうか。
実は、寝たきりの祖母のことで、どうしてもお願いしたいことがあって来たんです」

女性は理羅さんの静かな威圧感に気圧されながらも、何度も頭を下げてタオルを受け取ると、ポケットから大切そうに包まれた小さな塊を取り出し、そっとカウンターの上へ置いた。

彼女の視線の先にあるのは、すっかり色が褪せて輪郭のぼやけた、太平山神社の御守りだった。
かつては鮮やかだったであろう朱色の生地は擦り切れ、結ばれた紐も細く解れかかっているけれど、その古びた布地からは、持ち主が何十年も肌身離さず握りしめ続けてきたような、特有の強い圧力が微かに漂っていた。

「祖母はもう先が長くないと言われていて、ベッドから動くこともできません。
それなのに、毎日この御守りを強く握りしめながら、うわ言のように呟くんです。
『もう一度だけ、あの人と登った紫陽花の階段の景色を見たい。あの時分かち合ったお団子の味を……』って」

「……紫陽花の階段、分かち合ったお団子の味、ですか。
スマホで写真や映像を撮影し、名物のお団子を買い求めて届けるだけでは、おばあ様は満足されなかったのですね?」
理羅さんはその黄金の輝きを宿した鑑定眼でカウンターの御守りを冷徹に見つめ、依頼人の意図を透かすような鋭い視線を向けた。

「はい……。
写真も動画も試しましたし、お団子も買って病室へ持っていきました。
でも、祖母はそれを目にしても、小さく笑って『ありがとう。でも、違うのよ』と寂しそうに首を振るだけなんです」

依頼人の女性は自身の膝の上で両手を固く握りしめ、消え入りそうな声で切実に言葉を紡ぐ。
「わたしがいくら写真や動画を見せても、お団子を病室に持っていっても、おばあちゃんが昔、あの方と一緒に汗をかいて登った『あの時の太平山』の代わりにはならないんだって気付いたんです。
祖母が本当に求めているのは、ただの綺麗な景色や味じゃない……。
だから、ずっと肌身離さず持っているこの御守りに、何か別の、私には分からない『大切なもの』が遺されているんじゃないかって思ったんです」

「なるほど。
単なる感情論ではなく、空間と物体に遺された『記憶』の現像――いいえ、空間に遺された『音』の現像が必要な案件のようですね」
理羅さんは納得したように頷き、それから顎でそっと、窓辺にいたわたしに合図を送った。

「任せて、理羅さん」
わたしは頷き、ゆっくりとカウンターへ近づいて、擦り切れた布地へとそっと指先を伸ばした。

その指先が御守りに触れた瞬間、頭の芯を直接殴るような強烈な不協和音――激しいハウリングとホワイトノイズが、脳内へと一気になだれ込んでくる。

あまりの圧力に眩暈を覚えながらも、わたしは胸元をもう片方の手でぎゅっと握りしめた。
キィィィン、と鍵が正しい現実のピッチで共鳴を始めると、荒れ狂っていた雑音の波が急速に引いていき、特定の周波数だけが鮮明に抽出されていく。

耳の奥がじわりと熱くなり、ノイズの向こうから一つの力強い旋律が流れ出してきた。
それは、昭和30年代後半の空気――まだ舗装の荒い道路を通り過ぎる不器用な車の排気ガスの匂いと、雨上がりの瑞々しい初夏の青葉の匂いが混ざり合う、はるかな過去の質感。

何より鮮烈に響いてきたのは、二人の若い男女が、約束を交わすように一歩、また一歩と力強く石段を踏み締めていく、1000段の足音の旋律だった。
切なく、どこか張り詰めながらも、未来の重力へと向かっていく確かな足跡の音が、わたしの意識を激しく揺さぶる。

わたしはそっと指先を離し、深く息を吐きながら、まだ震える視線を理羅さん、そして依頼人の女性へと向けた。

「……確かに聴こえたわ。
あなたのおばあ様がずっと大切に守り続けてきた、とても強くて優しい約束の音が」

晴れ間の路線バスと、五人の五重奏

栃木駅のロータリーを出発した路線バスは、アスファルトから立ち上る陽炎の向こうへ、「國學院行き」のルートを静かに進んでいた。

窓の外に広がるのは、ここ数日のジメジメした悪天候が嘘のような、突き抜けるような青空――梅雨の中休みの、容赦のない初夏の日差しだ。
終点である「國學院前」まではおよそ十五分。
エアコンの冷気が微かに白く煙る車内で、私は二人掛けの窓側の座席に深く腰掛け、強い光に照らされる栃木の街並みをぼんやりと見つめながら、数日前に骨董店『GRAVITY』のカウンターで交わされた会話の音を思い出していた。

◆ ◆ ◆

『――確かに聴こえたわ。
すみれさんのおばあ様がずっと大切に守り続けてきた、とても強くて優しい約束の音が』

「え……? 音、ですか……?
あの、ただ触っていただけなのに、何が……?」
お守りから指先を離したわたしの言葉に、依頼人の女性はあからさまに戸惑った表情を浮かべ、完全に言葉を失って目を丸くした。
目の前で起きている奇妙な『調律』の光景と、突拍子もないオカルトじみた単語に、何が起きているのか分からず激しく困惑している様子で私たちを交互に見つめている。

理羅さんはその黄金の輝きを宿した鑑定眼を静かに動かし、納得したように机の上の契約書を引き寄せた。

『なるほど。
単なる感情論ではなく、空間と物体に遺された「記憶」の現像が必要な案件というわけですね。
安心なさい。
当店がその記憶、完璧に現像してみせましょう』

「げ、現像……?
あ、あの、おっしゃっていることの意味が私には全然わかりません……。
でも、本当に……本当におばあちゃんの未練を救う手掛かりが、そこから分かるんですか……?」
理羅さんの絶対的な自信と静かな威圧感に気圧されながらも、女性は藁にも縋るような必死さで、困惑の混じった声を絞り出した。

『ええ。
ですが、いま彼女が知覚した「過去の残響」だけでは、おばあ様が求めている正確な座標までは特定しきれませんわ。
日を改め、現地――太平山のあじさい坂へ赴き、現在の空間が持つ環境情報と照合させる必要があります』

「わかりました……!
あそこに行けば、何かが分かるのですね。
あの、費用ならいくらでも払います。どうか、どうかよろしくお願いします……!」
女性は理羅さんの言葉に何度も深く頭を下げると、一縷の望みを託すように契約書にサインを終え、どこか救われたような表情で雨の街へと帰っていった。

カラン、とドアベルの涼やかな音が店内に響き、静寂が戻る。
理羅さんは受け取った契約書を丁寧にファイルに収めると、カウンターの奥からひょっこりと顔を出したリョウリちゃんたちや、窓辺に佇むわたしたちを順番に見遣った。

◆ ◆ ◆

『――さて、というわけですわ。
今しがた共有した通り、今回の案件を解決するには現地調査が必要不可欠です』

理羅さんはパチンとファイルを閉じ、有無を言わせぬ目つきで全員を見渡した。

『雨の太平山を歩くなど正気の沙汰ではありませんから、次の梅雨の晴れ間を狙います。
広大な山道の環境データを効率的に集めるのですから、当然、人手が必要不可欠ですわね。
寧亜、未希、リョウリ、それに寧路。全員で太平山へ赴きますわよ』

◆ ◆ ◆

――不意に、そんな過去の音像が現実の層へと霧散していく。
代わって私の耳に飛び込んできたのは、路線バスの低いエンジン音と、車内を優しく満たすエアコンの駆動音だった。

ふと横に視線を向けると、隣の席の未希ちゃんも、日差しが照りつける車窓の外を眺めている。
いつものように静かに流れる景色を追うその横顔は、心なしか楽しげに見えた。

「未希ちゃん、なんかこういう梅雨の晴れ間のバスって、ちょっと旅に出るみたいでワクワクするよね〜」
真後ろの席から、飴の袋をガサゴソと鳴らしながら、リョウリちゃんがシートの背もたれ越しに身を乗り出してきた。

未希ちゃんは嬉しそうに小さく微笑んだ 。
「……そうだね。
悪くないね」

「それにしても、この蒸し暑さの中を千段も歩くなど、おぞましい非効率ですわ……」
リョウリちゃんの隣で、理羅さんが外に出たこと自体を後悔するように、心底憂鬱そうな溜息を吐いた。

すると、通路を挟んだ反対側の席から、消え入りそうな声が重なる。

「……激しく、同意。
十段目で、アタシは、熱中症で、確実に、死ぬ……」
パーカーのフードを深く被った寧路ちゃんが、バスの揺れと気温上昇に早くもライフを削られた様子で、魂の抜けた目を宙に向けていた。

「まあまあ二人とも!
おばあちゃんの思い出のお団子、私たちも食べれば一発で元気出るんだよっ!」
リョウリちゃんがいつものカラッとした調子で二人の絶望を受け流し、車内に小さな笑いが広がる。

いつもの、完璧に馴染んだ空気。

窓の外では、終点である「國學院前」の停留所が、眩しい光の向こうからゆっくりと近づいてきていた。

あじさい坂の試練と、千段の不協和音

國學院の広い駐車場内にある停留所で路線バスが速度を落とす。
──プシュウ、と抜けるような音を立ててドアが開いた。
一歩ステップを降りた瞬間、冷房で冷え切っていた肌に、梅雨の中休み特有のねっとりとした山の湿気がまとわりつく。
頭上から降り注ぐのは、ここ数日の長雨が嘘のような、どこか湿気を含んだ初夏の眩しい太陽光線だった。

「……うぅ、ドアが開いた瞬間から熱気でアタシのHPが削られていく……。
もう帰りのバスに乗り直したい……」
アスファルトから立ち上る陽炎に顔をしかめながら、寧路ちゃんが早くもパーカーのフードを引きずり下ろすようにしてぼやいた。

「泣き言を言うのはおやめなさい。
この日差しの中を無駄に立ち止まることこそ、最大の非効率ですわ」
理羅さんが流れるような手つきで白い日傘を広げ、凛とした足取りで木々に挟まれた緩やかな坂道を歩き出す。
その額には、早くも薄い汗の粒が小さく滲んでいた。

緑が濃い影を落とす道路を進んでいくと、右手にある有料駐車場には驚くほどたくさんの車がひしめき合っていた。
あじさい祭りの期間中とあって、誘導員のおじさんが忙しそうに誘導灯を振り、その奥のテントからは賑やかな声が響いてくる。
「あ!
見て見て寧亜ちゃん、未希ちゃん!
あそこのテントでとち介のグッズとかお土産売ってるんだよっ!
帰りに絶対見ようね!」
リョウリちゃんが琥珀色の瞳を輝かせながら嬉しそうに指をさした。
隣を歩く未希ちゃんも、陽光に眩しそうに目を細めながら、小さく口元を緩める。
「ふふ、可愛いね」

さらに坂を登っていくと、右手に佇む古い茶屋の軒先から、甘辛いタレが炭火で焦げる香ばしい焼き鳥の匂いがふわりと漂ってきた。
山から吹き下ろす風がその匂いを運んでくるたびに、お腹の虫が刺激されそうになる。
「うわぁ、お団子も卵焼きもすっごく美味しそう……!
かき氷もあるんだよっ!」
名物の品書きに目を奪われてゴクリとのどを鳴らすリョウリちゃんを、理羅さんが日傘の陰から冷たい視線で窘めた。
「目的を忘れるなと言ったはずですが?」

茶屋の先から舗装道路が途切れ、足元が厳かな石畳へと切り替わった。
目の前にどっしりと姿を現したのは、太平山神社の大きな石鳥居だ。
鳥居の脇には「あじさい坂」と力強く書かれた看板が立っており、左手を見上げれば、どの角度から見ても美しい平面六角形の二重屋根を持つ、連祥院の六角堂が静かな佇まいで山の入り口を守るように建っている。

そして何より圧倒されたのは、鳥居の先へと続く石階段の両脇を埋め尽くす、2500株にもおよぶ無数の紫陽花だった。
雨の名残を葉に宿した花々は、青、紫、瑞々しいピンクと、信じられないほど鮮やかな色彩のグラデーションを描いて咲き乱れている。
「すごい……!
本当にきれいに咲いてるんだねっ、未希ちゃん!」
リョウリちゃんが歓声を上げて駆け寄ると、未希ちゃんもその美しい光景を瞳に映し、静かに感嘆の息を漏らした。
「……うん、本当にきれい。
雨上がりだからかな、色がすごく深く見えるね」

「さあ、ここからが本当の本番ね」
みんなの弾む声を背中で聴きながら、わたしは小さく息を整えて、きれいに整えられた石段の一段目に足をかけた。

すぐに目の前の二ノ鳥居をくぐり、中央に設置された手すりの右側を登り始める。
最初のうちは傾斜も緩やかで、紫陽花を眺める余裕もあったけれど、わずか三十段目を過ぎたところで後ろから重い声が聞こえてきた。
「……ありえない。
インドア派に対する重力デバフが強すぎる。
アタシ、もう屋根裏に帰りたい……」
寧路ちゃんが早くも死にそうな顔で呟き、暑さと疲労で肩をがっくりと落として、足元の石段を呪わしげに睨みつけている。
まだ千段のほんの入り口だというのに、彼女のライフはすでに風前の灯火のようだった。

私たちは苦笑しながらも、湿気で滑りやすくなった石段を一歩ずつ進んでいく。
少し登った右手には、銭洗弁財天として知られる窟神社の鳥居が見えた。
鳥居をくぐり、脇道を奥へ少し進むと神秘的な洞窟があり、手前にある水場では、沢から引かれた清らかな水でお金を洗いながら「円結び」を祈る参拝客の静かな水音が響いている。

その涼やかな音に少しだけ癒やされながらさらに歩を進めると、緑の木々の合間にがっしりとした男性の胸像が立っているのが見えてきた。
台座には「田村律之助」の名前が刻まれている。
確か、明治から大正にかけてこの栃木の農業発展に全てを捧げ、ビール麦の普及に尽力したことから『農協の父』と称えられている偉人だ。
歴史ある街の息遣いをこんな山の中でも感じて、私は小さく息を吐いた。

胸像を通り過ぎると、左手には透き通った御神水が湧き出ており、さらにその先、何百年も前から使われてきたという過酷な旧参道の入り口には、重厚な青銅の鳥居がひっそりと佇んでいるのが見えた。

その青銅鳥居を左手に見送ったあたりから、あじさい坂の空気は一変した。
石階段の勾配が明らかにキツくなり、何十年ものあいだ無数の人々に踏み固められてきたであろう石畳の表面が、不規則に歪んで波打っている。
足の踏み場を選ばなければ簡単に足首をとられそうなほど歩きづらい。
先ほどまで目を楽しませてくれていた華やかな紫陽花の姿はいつの間にか消え失せ、左手には手入れもされていない過酷な山道が、鬱蒼とした木々の奥へと続いていた。
周囲は完全に、本格的な登山の様相を呈し始めていた。

右側には重々しい石垣が迫り、いつの間にか道幅もすれ違うのがやっとというくらいに狭くなっていた。
頼れる手すりも石垣側だけにしかなく、私たちは一列になって、ひたすら単調に続く直線の坂を登っていく。
太ももがじわじわと熱を持ち始め、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいくらいのピッチを刻み始めていた。

「はぁ、はぁ……っ……この、段差の不揃いさ、は……明らかな、設計思想の、欠陥、ですわ……っ」
すぐ前を歩く理羅さんから、いつもの優雅さからは想像もつかないような激しい息遣いが漏れる。
お気に入りの白い日傘はとうに固く畳まれ、今は必死に石垣側の手すりを掴んで足を動かしていた。

長く感じられた直線の終わり、左手にそびえ立つ杉の巨木を回り込むようにして山の中へと進み、さらに右へと折れた。
その瞬間、わたしたちは全員、息を呑んで足を止めることになった。

目の前に立ちはだかったのは、まっすぐ百メートルほど続く、見上げるような急勾配の石畳の階段だった。
生い茂る木々のトンネルの遥か先、平均十六度とも言われる険しい坂の頂点に、真っ赤な太平山神社の随神門が、まるで試練の門番のように威厳をもって佇んでいる。
延々と石段を登り続け、全身が汗だくで疲労が限界まで溜まっていたところに突きつけられたその終わらない壁は、見上げるだけで眩暈を覚えそうなほどの圧倒的な重圧感だった。

「……寧亜、私を置いて、先に行きなさい……これは、命令、よ……っ」
いつもは骨董店で凛とした美しさと威厳を放っている理羅さんが、ついに膝に両手を突き、完全に息を切らせてヘロヘロになりながら絞り出すような声で言った。

完璧な彼女のあまりにも人間らしいギャップに、わたしは驚きながらも、思わず駆け寄ろうとする。
「理羅さん、大丈夫ですか……っ!?」

わたしが声をかけるのと同時に、その横で寧路ちゃんが石段の上にへなへなと座り込み、完全に幽霊のようになっていた。
「……アタシも、ここで、力尽きる……」

「ほらほら理羅さん!
寧路ちゃん!
上でおいしい卵焼きが待ってるんだよっ!」
だが、そんな満身創痍の二人を置いていくどころか、リョウリちゃんは無尽蔵の体力と底抜けに明るい笑顔で振り返り、二人の背中をぐいぐいと力強く押し上げていく。
その驚異的なタフさに引っ張られるようにして、理羅さんと寧路ちゃんが再び恨めしそうな声を上げながら、なんとか最後の直線を登り始めた。

随神門の手前にある道路を横切り、時折通り過ぎる車の排気音を背中で聞きながら、なんとか重厚な門の屋根をくぐり抜ける。
しかし、一瞬でも「これで終わりだ」と息を抜こうとしたわたしたちを待っていたのは、言葉を失うような、さらなる残酷な光景だった。

門の先には、左右を再び鮮やかな紫陽花で埋め尽くされた石階段が伸びていた。
だが、その傾斜はこれまでの比ではなく、平均二十度とも言われる、壁のように反り立つ急勾配へと角度を増している。
はるか百メートルほど先、山の緑のどん詰まりに見え隠れする赤い櫓のような鳥居がゴールなのだと視覚で理解した瞬間、溜まりきった疲労も相まって、全身の力がすうっと抜けていくような絶望感を覚えた。

「……う、嘘でしょ……。
門の先に、第二形態が控えてるなんて聞いてないんだよっ……」
さすがの体力お化けだったリョウリちゃんすら、果てしない絶壁のような階段を見上げて琥珀色の瞳を丸くし、初めて弱音に近い声を漏らした。

「……もう、無理。
アタシ、本当にここで死ぬ……。
理羅さん、アタシが逝ったら、屋根裏部屋のハードディスクは、物理的に破壊して、ね……」

「勝手に私を遺族にしないでくださる……っ?
ですが、同感ですわ……あの、中間の石鳥居にすら、辿り着ける気がしません……」

寧路ちゃんが完全に白目を剥いてゾンビのように石段へ崩れ落ちそうになり、それを支える理羅さんも、唯一の拠り所である中央の手すりにしがみついたまま、ヘロヘロになって天を仰いでいる。

それでもリョウリちゃんが、自分に言い聞かせるような声を必死に振り絞った。
「お、お団子が、待ってるからっ!
ほら理羅さんっ、寧路ちゃんっ!」

悲鳴に似た息遣いを響かせながら、彼女は二人の背中をぐいぐいと押し、限界を超えた足取りで急な階段を這うように登り始めた。

不協和音のような声を上げながら必死に先行していく三人の背中を少し離れた位置から見送りながら、わたしと未希ちゃんは自然と歩調を合わせ、中央の手すりを頼りに、一段ずつゆっくりと石段を踏み締めていった。

「……大丈夫……?
未希ちゃん」
わたしが横を向いて問いかけると、未希ちゃんは額に滲む汗を小さく振って払いながら、静かに首を振った。

「……うん。ちょっと、息が上がっちゃう……けど。
でも……不思議と、苦しくないよ」

そう言って、未希ちゃんは急な傾斜で足がもつれそうになったわたしの腕を、そっと支えてくれる。
お互いの熱い息遣いを感じ合い、一歩ずつ、汗だくになりながら階段を踏み締めていく感覚は、胸の奥をじんわりと温めるような心地よさがあった。

おばあちゃんがかつて、あの日にはるか高いこの場所を目指して必死に歩んだ足音を、わたしたちは今、確かに二人で追体験している。
服の下にある大切な重みが、これから現像するべき強い約束の音に向かって、わたしの意識を静かに、けれど深度を増して研ぎ澄ませていった。

第24話・前編『あじさい坂の残響 —踏み締める足跡—』(後編に続く)



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