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『蔵の街のグラビティ』第25話・前編『水飛沫の境界線 —真夏の微睡(まどろみ)—』

じっとりと肌を焼くような夏の長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
西の空の低いところから差し込むオレンジ色の斜光が、結衣先生の愛車のフロントガラスを抜け、狭い車内を濃い夕暮れの色で満たしている。

窓の外に目をやると、真岡から栃木市へと戻るバイパスの脇には、見渡す限りの田園風景が広がっていた。
どこまでも続く瑞々しい緑の絨毯が、夕陽の重力を受けて黄金色に波打ちながら、驚くほどの速さで背後へと流れ去っていく。
運転席からは、結衣先生の趣味だという少し古いファンクビートが、低音を低く響かせながら、ひかえめな音量でスピーカーから流れていた。

その気怠げで心地よいリズムに合わせるように、後部座席の中央に挟まれたわたしの両肩には、とても抗いきれないほど優しくて重い、二つの体温がのしかかっている。

「……ふ、ぅ……す、う……」
わたしの左側では、今日一日中プールで誰よりもはしゃぎ回り、完全に体力の限界を迎えた陽葵ちゃんが、すとんと力を抜いてわたしの左肩に頭を預けていた。
いつもなら小動物みたいに元気よく跳ねている彼女のボブカットの毛先が、水気を含んで少しだけしっとりと乱れ、わたしの首元を優しくくすぐる。
塩素の匂いがほんのりと残る彼女の肌は、夏の日差しを吸い込んだせいで、触れている衣服越しにも分かるほど小さく火照っていた。

そして右側からは、未希ちゃんがわたしの着ているノースリーブワンピースの腰まわりの生地を、細い指先でぎゅっと握りしめていた。
そのままわたしの肩口に額を深くうずめるようにして、静かに呼吸を繰り返している。
ノースリーブの肩先に、未希ちゃんが羽織っているロングジレの軽やかなリネンの白が重なり、露出したわたしの右腕には、彼女の静かな体温がじかに伝わってきていた。
眠っているのか、それともただ微睡んでいるだけなのかは分からない。
けれど、陽葵ちゃんの寝息を遮るようにしてわたしのワンピースの生地を掴むその指先からは、言葉にならない強烈な独占欲のような熱い情念が、確かな重みとなってわたしの身体へと沈み込んでくる。

左右から密着する、少女たちの柔らかくて少し熱い重力。
冷房の冷気すら届かないほどの密着感に、ふと顔を上げると、運転席のバックミラーに、こちらを覗いて可笑しそうに目を細めている結衣先生の瞳が映った。
あまりの身動きの取れなさと両隣からの熱気に、わたしはミラー越しに先生の視線と視線を合わせながら、困ったように小さく苦笑いを返すしかなかった。
けれど、その両肩に伝わる髪の感触や、気怠い疲労感は、決して不快なものではなかった。

(みんな、本当に限界まで泳いでいたものね……)
声には出さず、心の中でそう呟きながら、わたしはそっとシートに深く身体を預けた。

単調に流れるカーステレオの低音と、窓の外をたゆたう茜色の影。
心地よい車の揺れに身を委ねるうち、わたしの意識は、静かに深い微睡みの底へと溶けていった。

往復四時間半のデスロードと、片道五十分の救世主

──連日のように三十五度を超える猛暑が容赦なく降り注ぎ、蔵の街全体が沸騰した熱気の底に沈み込んでいた、数日前の夕方のこと。

冷房は静かに稼働しているはずなのに、食後の『GRAVITY』のリビングには、どこか気怠く重たい熱気が消えずに残っていた。
一日中凶悪な西日を浴び続けた分厚い黒漆喰の壁から、じわじわと放射される重厚な余熱。
それが冷気をじわじわと相殺してしまっているようで、夕食を終えてお腹がいっぱいになった身をソファーに預けていると、肌に薄い汗の膜が張り付いていくような錯覚さえ覚える。

そんな茹だるような静けさのなか、リビングのあちこちでは、それぞれが食後の気怠い時間を思い思いにやり過ごしていた。
窓際の一人がけソファーには未希ちゃんが深く腰掛け、お店の棚から持ってきたらしい少し日に焼けた古い小説を、細い指先で静かにめくっている。
その少し離れたテーブルの対面では、家主である理羅さんが、背筋を美しく伸ばしたまま革装丁の重厚な洋書を開いていた。
時折、ページが擦れる乾いた音だけがリビングに小さく響き、夏の夜へと向かう時間を優雅に刻んでいる。

わたしはといえば、氷のすっかり溶けた冷茶のグラスを指先で弄びながら、その静かな空間の一部になっていた。

「もう暑くて溶けちゃうんだよぉ! プール! 流れるプールに行きたいんだよぉ!」
大きな声を上げてテーブルに突っ伏したリョウリちゃんの衝撃に、グラスが小さく音を立てて揺れ、木の天板に溜まっていた結露の水滴が不揃いに広がった。

「ちょっと、リョウリ。
騒がしいですわ。
せっかくの静かな夜の読書時間が、一瞬で大衆プールの喧騒にすり替わってしまいました。
声を張るなら、もう少し涼しくなってからになさい」
その騒々しさに、理羅さんが眉をひそめて洋書からゆっくりと視線を上げた。

「だって、理羅さん! 本当に溶けちゃうんだよ!?
冷たーいお水の中にどぼーんって飛び込んで、流れるプールで大きな浮き輪に乗って、ぷかぷか流されたいじゃない!」
涙目で訴えるリョウリちゃんに釣られるように、窓際のソファーの未希ちゃんもそっと本を伏せた。

「だって、理羅さん! 本当に溶けちゃうんだよ!?
冷たーいお水の中にどぼーんって飛び込んで、流れるプールで大きな浮き輪に乗って、ぷかぷか流されたいじゃない!」
涙目で訴えるリョウリちゃんに釣られるように、窓際のソファーの未希ちゃんもそっと本を伏せた。

「……うん。
このままだと、本当に身体の中から茹だっておかしくなってしまいそう。
冷たい水の中にそっと沈んで、夏の熱気が肌からゆっくりと溶け出していくのを、静かに味わってみたいかな」
いつになく五感の解像度が高い、けれど切実な響きを帯びた声で、未希ちゃんがぽつりと呟いた。

「栃木でプールといえば万プーだけど……」
ふいに、いちばんエアコンの風が届きやすい特等席から、低くて冷ややかな声が聞こえた。

「まんぷー……?
ごめん、それって何のことかな?」
聞き慣れない独特な響きに、わたしが思わず首を傾げて問いかける。

「えっ、ねーあ、万プーを知らないの!?
真岡市にある『井頭公園一万人プール』のことだよっ!
すっごく広くて、栃木の夏といえば絶対にそこなんだから!」
テーブルから勢いよく顔を上げたリョウリちゃんが、我がことのように自慢げに教えてくれた。

「一万人プール……。
名前のスケールが凄くて、ちょっとびっくりしちゃった。
でも、そんなに大きな場所なら、なんだか楽しそうだね」
わたしがその広さを想像して目を細めると、ネロちゃんがふっと深い溜息を漏らした。

寧路ちゃんが不機嫌そうにタブレットを睨みつけたまま、画面を指先で弾くようにして鼻で笑った。
「楽しそう、ねえ?
アタシの『だけど』を綺麗にスルーして夢を見るのは勝手だけど、現実のシステムを見てほしいわけ。
あそこ、プールの期間中は一応、JR宇都宮駅からLRTで清原市民センター前まで行って、そこから臨時バスに乗り換えれば、目の前まで着く設計にはなってるけどさ」

「お、乗り換えはあるけど、ちゃんとバスが出てるんだねっ!
それなら私たちでも行けるんじゃ──」
期待にパッと目を輝かせかけたリョウリちゃんの言葉を、寧路ちゃんは容赦のないダウナーな低音でぴしゃりと遮る。

「本当のクソゲー仕様はここから。
その臨時バス、だいたい一時間半に一本しか運行してない上に、まさかの『事前予約制』だから」

「よ、予約制……!?
プールに行くバスなのに、予約が必要なんだねっ……!」
あわあわと慌て出すリョウリちゃんを冷ややかな視線だけで黙らせて寧路ちゃんが淡々とトドメを刺した。

「もし予約枠が埋まってて、普通の路線バスとかを使う通常ルートで行くハメになったら、乗り換えだらけで移動だけで往復四時間半コース。
おまけに最寄りのバス停から炎天下の中を延々と歩かされる、ただのデスロードが確定するよ。
そんな秒刻みのスケジュール管理と過酷な移動に、アンタたちの脆弱な体力が耐えられると思っているわけ?
そのコストがあれば、アタシがこの夏に消費するはずの冷たいココアが、一体何杯飲めると思っているわけ?」

「往復四時間半……!
それに、もし予約が取れなかったらそんなに歩くことになるの……?」
突きつけられたあまりに非効率で過酷な現実の壁に、わたしは思わずめまいを覚えるような心地で苦笑いを浮かべてしまった。

「そうですわね。
事前に予約を勝ち取らなければ辿り着けないプールなど、およそ正気の沙汰ではありませんわ。
ちょっとした手違いでその四時間半のデスロードに放り込まれれば、水に飛び込む前に熱中症で全滅してしまいます。
車ならバイパスを一本で行けるものを、公共交通機関を使おうとすると、この辺りからは本当に不便ですわね」
理羅さんも、心底呆れたように小さく肩をすくめて洋書を閉じる。

「うえぇ……」
すっかり干からびたカエルのようになって、リョウリちゃんが再びテーブルへ沈没した。
それを見た未希ちゃんも、静かに落胆したように視線を落としてしまった。

「未希ちゃん……。
やっぱり、車がないと行くのは難しいのかな」
お隣で目に見えてしおれてしまった様子がなんだか可哀想になって、わたしがそっと語りかける。

「うん……少し、期待しちゃったから、仕方のないことだけど。
やっぱりちょっと、残念かな」
未希ちゃんは寂しそうに微笑んで、パタンと手の中の古本を静かに閉じた。

誰もが真夏のプールの夢を諦めかけ、リビングには再び、エアコンの微かな稼働音と重苦しい気怠さだけが残された。

◆ ◆ ◆

パタパタと、キッチンの方からスリッパの軽やかな音が響き、涼しげなガラスの触れ合う音が近づいてきた。

「はい、金森さん。
冷たいお茶のおかわりを淹れてきましたよ」
戻ってきたのは、食後のお茶を淹れにキッチンへ立っていた彩莉栖先生だった。
新しく氷を浮かべた冷茶のグラスを優雅な動作で理羅さんの前に置き、自分用のグラスを傾けながら、いたずらっぽく微笑む。

「キッチンまで皆さんの絶望的な声が聞こえていましたけれど……。
それなら、ちょうどいい解決策がありますよ?」
「アイちゃん先生……解決策って、なぁに?」
突っ伏したまま顔だけを上げたリョウリちゃんが、テーブルに顎を乗せた姿勢のまま彩莉栖先生を見上げた。

「今度の土曜日、瀬戸際先生が個人的なご用事で、真岡の方まで車を出すとおっしゃっていたんです。
なんでも、ご自分の大好きな……あら、これは秘密にしてほしいと言われていたのでした。
とにかく、どうしても外せない大切なお買い物があるそうで。
『真岡へ行くならすぐ近くに万プーがあるし、帰りに温泉にでも寄って帰ろうかな』なんて、楽しそうに呟いていましたよ。
……どうでしょう。
私から、車に皆さんを同乗させてあげられないか、今からちょっと瀬戸際先生に連絡して、可愛くお願いしてみましょうか?」
おっとりと首を傾げる先生の言葉に、リビングの空気がぴたりと止まる。

「アイちゃん先生……!
神様、仏様、アイちゃん先生様なんだよぉぉ!!」
絶望から一転、思いがけない救いの手を差し出されたリョウリちゃんが、文字通り目をきらきらと輝かせて飛び起きた。

「そうですわね。
渋滞がなくてスムーズにいけば、ここから五十分ほどで万プーまで行けますもの。
先ほどの往復四時間半という絶望的な数字を考えれば、そもそもここから向かうなら選択肢は車一択でしたわ」
理羅さんも、ふっと表情を和らげて洋書をテーブルに置いた。

「……うん。
車なら、あの炎天下を三十分も歩かなくて済むんだね……。
今度こそ本当に、みんなで冷たいお水の中に飛び込めるかもしれない、かな」
窓際の一人がけソファーの未希ちゃんが、膝の上の閉じた本をそっと抱え直しながら、嬉しそうにぽつりと呟いた。
わたしの方を見つめるその表情が、パッと花が咲いたように明るくなっている。

「ふふ、それじゃあ早速、瀬戸際先生にメッセージを送ってみますね。
きっと色良い返事がもらえると思いますよ」
彩莉栖先生が楽しそうにスマートフォンを取り出す姿を見つめながら、リビングの空気が一気にきらきらとした真夏の予感で満たされていくのを、わたしは弾む胸の鼓動と共に、ワクワクしながら見守っていた。

左手に甘え、右手に嫉妬、わたしを捉えた二つの引力

「お待たせー!
水着も日焼け止めも、バスタオルもバッチリ持ったよ!」
土曜日の早朝、二階の自室からドタバタと賑やかな足音を響かせ、大きなバッグを抱えたリョウリちゃんが階段を駆け降りてきた。
鮮やかなイエローのタンクトップ姿が、彼女の健康的なエネルギーをそのまま体現しているみたいで眩しい。
完全な夏休みに入る一歩手前の、特別な週末の朝だった。

「リョウリちゃん、声が大きいよ。
……でも、本当にみんな気合が入ってるね」
リビングで待っていたわたしが苦笑しながら声をかける。
今日のわたしは、ミッドナイトブルーのリネンドレス。
自分なりに少し大人っぽいホリデースタイルを選んでいたけれど、リビングで出発を待っていた二人の姿は、さらに夏の空気によく映えていた。
未希ちゃんは涼しげなオールホワイトの装いで、羽織ったロングジレの裾を扇風機の風に軽やかに揺らしている。
対する陽葵ちゃんは、ライトオレンジのキャミソールの上に白いシースルーシャツをラフに羽織り、わざと肩をルーズに覗かせるお姉さんギャルな佇まいだ。

「……寧路ちゃん、本当に留守番でいいの?」
わたしが振り返ると、首振りモードの扇風機の前から地蔵のように動こうとしない寧路ちゃんが、死んだ魚のような目でこちらを見返してきた。

「紫外線と塩素は、アタシの脳のパフォーマンスにデバフをかける。
パス」
頑なにゲーム機の画面へと視線を戻してしまう彼女の姿に苦笑していると、外からプッと短くクラクションの音が聞こえてきた。
「あ、結衣先生の車が来たみたい!」
リョウリちゃんがパッと表情を輝かせ、私たちは大きな荷物を手に連れ立ってリビングを出た。

玄関の三和土(たたき)で、今日のために用意したそれぞれのサンダルに足を通す。
バカンス仕様の足元をきれいに揃えてドアを開けると、朝の澄んだ空気の中に、結衣先生の白いコンパクトSUVがすでにハザードランプを点滅させて待っていた。
助手席の窓から顔を出した結衣先生は、ライトグレーの涼しげなシアーニットを羽織っていて、プライベートの装いも相変わらずスタイリッシュで格好いい。

「みんな、おはよう。
忘れ物はないかな?
楽しい遠征にするためにも、水分補給の準備だけは必須だよ」

「結衣先生、おはようございます!」
「おはようございます……っ」
「先生、おはよー!」
心配性な先生らしい柔らかい笑顔に、私たちはめいめいに挨拶を返しながら車に乗り込んだ。
助手席にはリョウリちゃんが元気よく陣取り、後部座席には右から未希ちゃん、わたし、陽葵ちゃんの順番で滑り込む。
バタン、とドアが閉まる小気味いい音が響き、車は滑らかに走り出した。

「ふふ、これでちょうど五人、ぴったり満席だね」
ハンドルを握る結衣先生が、バックミラーに視線を送りながら楽しそうに呟く。
「本当だねー。あ、でも、もし今回みんなが来てたら、先生の車だけじゃ全然乗り切れなかったってことかぁ」
助手席のシートに深く背中を預けながら、リョウリちゃんが窓の外を眺めて思い出したように言った。

「そう考えると、理羅さんや宵ちゃんも一緒に行けたら、もっと賑やかで楽しかったのになぁ。
二人とも本当に忙しいんだね」
助手席のシートに深く背中を預けながら、リョウリちゃんが窓の外を眺めて少しだけ寂しそうに声をこぼす。
理羅さんに関しては、先日の夜に、優雅に紅茶のカップを傾けながら相変わらず凛とした格調高さで断られたのを、わたしもその目で見ていた。

◆ ◆ ◆

『私(わたくし)はその日の午後、ロンドンの大学とのオンライン面談が控えておりますの。
ギャップイヤーの報告を怠るわけにはいきませんでしょう?
大英帝国の規律というものは、子羊たちの呑気な水遊びなど待ってはくれませんのよ』

◆ ◆ ◆

「理羅さん、相変わらずお淑やかだけど容赦ないよねぇ」
助手席のリョウリちゃんが、楽しそうに笑いながらシートの上で身を揺らす。

「理羅先輩、プールで髪が濡れるのとか絶対に嫌がりそうですもんね」
後部座席の陽葵ちゃんもクスクス笑いながら、わたしの肩に頭をこてんと傾けてきた。
その距離の近さにドギマギしていると、右隣の未希ちゃんは窓の外を眺めたまま、ぷくっと両頬を膨らませた。

「でしょ? でもね、宵ちゃんの断り方はもっと凄かったんだよ!」
車内のリアクションに満足したように頷きながら、リョウリちゃんがシートベルトに身体を締め付けられながらも、器用に上半身をひねって後ろを振り返ってきた。
「あのあとさ、すぐ電話してみたの。『みんなで万プー行こ!』って。そしたらさ──」

◆ ◆ ◆

──その、電話の向こう側。

少し開いたシアーカーテンの向こうに、夜の街明かりがうっすらと透ける薄暗い部屋の片隅で、宵は机に向かい、ノートPCの青白い液晶光に照らされながら、静かにキーボードを叩いていた。
耳にしっかりと収まったワイヤレスイヤホンが、リョウリからの着信音を拾う。
宵はタイピングの手を一切止めないまま、スマートにタッチセンサーをタップして通話に切り替えた。

『ねーねー宵ちゃん、明日さ、みんなで万プー行こ!
たまには息抜きして、一緒に遊ぼうよー!』
イヤホン越しに響くリョウリの楽しげな声に、宵は小さく吐息をこぼし、穏やかな、しかしどこか冷徹さすら感じさせる美しい声音で応じた。

「リョウリさん、お誘いいただき本当にありがとう。
ですけれど……非常に申し上げにくいのですけれど、現在の私は夏コミの新刊原稿と文字通り命を懸けた交渉中なのよ。
一分一秒の猶予も残されていないわ」

『えっ、そんなに!?』

「ええ。せっかくお声がけいただいたのに、ご一緒できなくて本当にごめんなさいね。
プロットの神様が私に微笑んでくださるかしら……なんて思いつつ、私はこのまま戦線に戻るわね。
それでは皆様で、どうぞ楽しい休日を」

淀みのない所作でタッチセンサーを指先で弾き、通話を終了する。

ワークチェアを滑らせてデスクの横を向くと、宵は組んだ両手を頭の背後にそっと添え、そのままゆっくりと天井を見上げ、深いため息をひとつ落とした。

「……青い空と、プール、ですか」

ぽつりと零れ落ちた声には、電話越しには決して見せなかった、ほんのわずかな未練と寂しさが滲んでいた。
眩しい夏の太陽の下で賑やかにはしゃぐ彼女たちの姿を脳裏に浮かべ──けれど、すぐにその雑念を断ち切るように深く目を閉じる。

静寂が戻った薄暗い部屋で、宵は再び、ただ淡々と画面の文字数を紡ぎ始めていった。

◆ ◆ ◆

「──って、もの凄くお上品に、でも『原稿と命懸けの交渉中なのよ』なんてお淑やかに断られちゃったんだよねー」
現実の車内にリョウリちゃんの笑い声が戻ってきて、後部座席はドッと笑いに包まれた。
「あはは、目に浮かぶようね……」
わたしは苦笑いを浮かべながら、今頃あの涼しい顔の裏で必死に原稿と戦っているであろう同級生の姿を思い浮かべ、心の中でそっとエールを送った。
みんなそれぞれ、大人の事情とか、どうしても外せない修羅場があるのだ。

そんな一緒に行けなかったみんなに思いを馳せているわたしの隣──後部座席の空気は、エアコンの冷気が追いつかないほど妙な熱気に包まれていた。
現在の配置は、右から未希ちゃん、真ん中にわたし、そして左側に陽葵ちゃんという、物理的にも精神的にも逃げ場のない三つ巴の状態である。

「ねーえ、寧亜せんぱい。
ちょっと狭いですし、腕組んでもいいですかぁ?」
さっきから肩を寄せてきていた陽葵ちゃんが、高周波の鈴を転がすようなあざとい声を響かせながら、当然のようにわたしの左腕にぴったりと抱きついてきた。
彼女が羽織ったシースルーシャツの極薄な生地越しに、柔らかい体温と女の子の甘い香りが至近距離から一気に押し寄せてくる。
わたしの剥き出しの左肩に、彼女の滑らかな肌の感触がダイレクトに触れて、さすがにいつも以上の密着度にタジタジになってしまう。

「ひ、陽葵ちゃん……!?
ちょっと、今日はさすがに近すぎ──」
わたしが慌てて身を引こうとすると、陽葵ちゃんは狙い通りと言わんばかりに琥珀色のタレ目をきらきらと輝かせた。
「フフン♪ せんぱい、お耳が赤くなってますよぅ?
わたしだけの特等席ですから、絶対に離しませんっ」
嬉しそうに声を弾ませてしがみつく腕にさらにぎゅっと力を込めながら、陽葵ちゃんはわたしの背後を通る視線で、右隣の未希ちゃんに向かって目を細めた三日月のドヤ顔をバチッと決めた。

……完全なる、無言の宣戦布告だった。
その瞬間、わたしの右隣──それまで頑なに窓の外を眺めていた未希ちゃんの細い指先が、きゅっとわたしの服の裾を強く握りしめた。
恐る恐る横目を向けると、未希ちゃんは頑なに窓の外を眺めたまま、ぷくーっとこれ以上ないほど両頬を膨らませていた。

左からは積極全開で迫ってくる甘えの波動、右からは無言で発せられる静かな重力。
その二つの強烈な個性に挟まれたわたしは、もはやどちらを向くこともできず、ただ前を向いて彫刻のように固まるしかなかった。

「はーい、後部座席の二人、そこまでにしなさーい。
せっかくのプールなんだから、泳ぐ前にバテたらもったいないでしょ?」
バックミラー越しに私たちの小競り合いを覗き見ながら、ハンドルを握る結衣先生が、呆れ半分、心配半分といったトーンで声をかけてきた。
「せっかくの休みなのに、熱中症や酷い日焼けで台無しになったら目も当てられないからね?
こまめな水分補給と、日焼け止めは必須だよ?」

ふと思い出したように、結衣先生が「実はここ、要注意なんだけど……」と人差し指を立ててバックミラー越しにウィンクする。
「万プーってね、水質管理のためにサンオイルの持ち込みは完全禁止なんだけど、ウォータープルーフの日焼け止めなら使用可能なんだよ。
だけど、現地に着いてから塗ってすぐに水に入ると、肌に馴染む前に流れ落ちちゃうからね。
みんなちょうどノースリーブやタンクトップなんだから、服を着たままでいいから、今出ている腕や足だけでも車内で塗っておくのが必須だよ。
今サボると、お肌が真っ赤に灼けて明日の朝に詰んじゃうからね?」

「はーい! じゃあみんなで先に塗っちゃうねっ!
日焼け対策もこれで準備万端だよ、結衣先生!」
助手席のリョウリちゃんが元気いっぱいに両手を挙げて応える。
そんな賑やかな声に包まれながら、結衣先生の運転する白いSUVは、真岡バイパスを快調に突き進んでいった。

第25話・前編『水飛沫の境界線 —真夏の微睡(まどろみ)—』(後編へ続く)

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